少女「…覚悟!」
少女が固めた拳を後ろに引き、間合いを一気に詰めた。
唸りをあげた拳が顎にするどく入る瞬間、俺は目を閉じた。
祐一「はい?」
少女「このっ」
ぽこっ、ぺちっ、ぽこっ、ぺちっ!
手で叩いたり足で蹴ったりもされるが、わざわざよけるまでもないような、やわなものだった。
祐一「なにやってんの、おまえ」
真に迫った言動とは裏腹に、少女はあまりに喧嘩慣れしていない。
さらには子供のように地団駄を踏んでさえ見せている。
祐一「
俺は試しに少女の額を手のひらで押さえつけてみる。
ぶんぶんぶんっ!
空を切るばかりで、実際全然届かない。
祐一「一体…何だったんだ?」
あの後、少女は突然ぶっ倒れて気絶した。
…そういう運命だったのかもしれない。
仕方なく連れ帰ると…
祐一「そうだ。人間だ。しかも女の子だ」
祐一「
だが途中で引き返して…
祐一「
祐一「違うっ!」
祐一「
秋子「顔に覚えは?」
祐一「あったら、押し倒してますよ」
祐一「
…て俺はバイセクシャルか?
…突っ込んでください。
祐一「
祐一「
祐一「じゃあ、お前とならいいのか?」
はっ! 思わず口に出してしまった! …秋子さんの前なのに…
ぐあ…恥かしがりもせず頷きやがったよ、こいつは。
祐一「
名雪の言葉を無視して、そう俺は締めくくった。
秋子さんも納得したように頷き、ようやく飯にありつけることになった。
秋子さん…納得していいの?
真琴は肉まんと出会った。
祐一「
真琴は上着のポケットから財布を取り出すと、中身と睨めっこし始める。
祐一「ああ、いってこい」
それから…
北川「
北川「順調…と、言いたい所だが…」
北川「顔については…ほっといてくれ」
北川「…どうやら万引きがあった…らしい」
北川「ああ、集計が合わなかった…それと」
北川「
北川(そう言えば…今日肉まん買った客の中に、店に入るなり転んで『あうーっ』て泣いてた変な女の子がいたな)
真琴「クチュン!」
そこには肉まみれになった祐一が、肉まんの袋に手を突っ込んだまま固まっていた。
……
真琴「あぅ、ういんなー…」
祐一「ぅぎゃーーっ!!」
俺はその『ういんなー』と言う言葉を聞いて、涙が出そうになった。
朝だから戦闘体勢になっているにも関わらず、こんな表現をされるなんて。
【第五話 ともだち】
……発熱した真琴は、物静かになってしまった。
真琴「………」
そして、真琴の挨拶を待った。
俺には天野の意図するところがわからない。
それはまるで、自分自身に対する当てつけのような、そんな気がした。
真琴は自分の名を名乗ることができない。
それを彼女は真琴の様子を一目見て、理解していたはずだったからだ。
天野「ほら、お名前は?」
真琴「あぅ…」
何を訊かれているのかもわからないのだろう。
真琴は口ごもって、ただ天野の顔を見返すばかりだ。
天野「お名前は?」
天野は質問を繰り返した。
語調は優しく、焦れったい反応を見せる真琴を前にしても、終始穏やかなままだった。
そしてそれは、相手のことを一から十まで理解している者の優しさだった。
決して自虐的になっているわけでもなく、真琴に対して辛辣にあたっているわけでもない。
言うなれば、見守る者、母の優しさだった。
そのことを悟ったとき、俺の天野に対する疑念は立ち消えていた。
やはり、天野でよかった。
天野「お名前は?」
天野「お名前は?」
天野「ほら、頑張って」
天野「お名前は?」
真琴「うーっ…」
天野「お名前は?」
天野「ほら、お名前は?」
天野「ま?」
こくり、と真琴が頷く。
天野「まの次は?」
真琴「こ…」
天野「まこ? まこでいいの?」
ぷるぷると顔を横に振る。
……!?
しびれを切らしたのか、真琴がまだ言い終ってないうちに次の質問をした。
天野「それで名字は?」
…やっぱり当てつけなのか?
天野「おいで、まこまこ」
悔しそうに、真琴は手をぐーにして振り上げた。
言葉を発することができない本人の代わりに、その手首に巻かれた鈴が、ちりんちりんと威嚇していた。
安らかに微笑みながら。
そんなふたりの姿を見て、俺もつられて笑っていた。
何だかもう、力無く笑うしかなかった。
自分の迂闊さをあざ笑っていた。
止めておけばよかった。ふたりを引き合わせるべきではなかった。
…そうでもないか。
言葉こそないが元気に殴りかかる様になったのだ。
そんなこと俺にはできなかっただろう。
天野「こうしたら、落ち着くんです」
俺のほうも振り返らず、天野は小声で説明した。
それは違うぞ天野。
真琴「あうう……」
真琴はあまりの痛みに動けなくなっていた。
抵抗できないだけだぞ、天野
天野「お名前は?」
頭をゴリゴリしながら、天野はそう繰り返した。
天野「ほら、まこまこ」
いつものように名雪の眠そうな声が聞こえる。
それと…俺が嬉しさで泣き出しそうになる程に、元気で騒がしい声が聞こえる。
祐一「早く食べて…おわっ!」
祐一「…何やってんだ? お前ら」
名雪は、巨大なおでん種…もとい、俺の最愛の妻を抱きかかえていた。
名雪「まこぴー」
祐一「
どうやら、完全に寝ぼけているようだった。
自分の膝の上に、真琴を座らせる。
それで満足したのか、名雪はそのまま眠っていた…
普段もどこか浮き世離れした雰囲気のある名雪だが、朝はそれが1.5倍くらいになる。
真琴「……」
真琴は怪訝な顔で、自分を乗せている名雪を見ている。
秋子「
間違いなく半分以上寝ているといった感じのゆっくりとした動作で、トーストにジャムを塗っている。
いつもは一緒には食べない秋子さんも、今日は俺たちと食卓を囲んでいる。
4人の、不思議な食卓風景だった。
のんびりと頬に手を当てて、穏やかに微笑む秋子さん。
そうなのだ。家族が増えた。真琴が戻って来たのだから。
幸せそうだった。こいつが求めていた温もりがここにあったのだ。
まるで二人羽織のように真琴の口にトーストがねじ込まれる。
そのパンには…禍禍しいオレンジ色のジャムが塗られていた。
真琴「…沢渡」
きっと、天野は真琴の悪友でいてくれる。
今日から、ずっとこれからも。
出てこない。
秋子さんは偶然トイレの前を歩いていた。
【第九話 お使い】
祐一「お、真琴。どこいくんだ?」
真琴「おつかい。お豆腐買いに行くの」
祐一「そうか。ひとりで買えるか?」
祐一「どう見たって子供じゃないか、おまえ」
真琴「大人よっ!」
そう言ってムキになるのは子供だろ…
祐一「じゃあ…ついでにピンクローターも頼む」
祐一「知らないのか、ピンクローターを」
祐一「大人のおもちゃだ」
…本当に知らんのか?
祐一「
真琴「買ってきていいの?」
祐一「そうだな。金渡すよ」
俺は小銭を数枚取り出すと、それを真琴の手のひらにのせてやる。
祐一「
祐一「
真琴「うん、真琴も遊んでいいよね?」
祐一「おまえが大人だったらな」
祐一「じゃ、家戻ってるから」
真琴「うん」
…前にも、この手口でエロ本買わされそうになったのに…
あいつに学習能力は無いのか?
遠くで怒声がする。
ということは、真琴が帰ってきた他に考えられない。
大人のおもちゃの買い付けを頼んでおいて…
真琴「祐一、帰ったよーっ♪」
なんて愛想良く帰ってこられても、それはそれで問題だ。
階段を勢いよくのぼる音まで聞こえてくる。
すべての行動が、音だけでわかる。最後の、ばんっ!!は、当然この部屋のドアを開け放った音である。
祐一「よぉ、真琴」
祐一「買えたか?」
真琴「買えないっ、買わないっ、買えるかっ!」
祐一「久し振りの、すごい三段活用だな…」
真琴「大体お金が全っ全足りなかったわようっ!」
それもそうだ、いくらなんでも小銭では買えん。
真琴「店員のひとに説明されちゃったのよっ!」
おいおい、真琴にどう説明したんだ?
祐一「そりゃおまえが子供の証拠だ」
真琴「
祐一「
普通は女性が(女性に?)使う物だ。
真琴「うそだぁ…」
祐一「
真琴「あぅーっ…」
眠っていたが尿意を催して目覚めた。
声「んっ…はっ…」
声「ふうっ…く……う…」
真琴の部屋から聞こえる。
声「あぅ…う……く…」
…まさか…また発熱してるのか?
また居なくなってしまうのか?
声「…ゆう…いち…」
相当苦しいのか、大きなうめき声を上げた。
祐一「いっちゃった…」
祐一「
俺は焦りに任せて、真琴のパジャマの襟元をひっ掴む。
顔は火照って赤くなり、息も荒い。
発熱して苦しいだろうに、布団も被らず、漫画を持っている。
祐一「
その上にずいぶん薄着だ。
上半身はパジャマだけ、
下半身に至っては、一糸まとわぬすっぽんぽんのあられもない姿だった。
祐一「なんて格好だ! もっと節制しろよ!」
…そう言えば、うめき声は苦痛……にしては妙になまめかしかったような……?
持ってた漫画も……何やらいかがわしい絵だったような気がする…
…ぐあ。
絶頂に達して恍惚としているのか、素直に凄い事を言った。
祐一「バカ! アレはもっと静かにやれ!」
全く人騒がせな…
お使いの悪戯(セクハラ?)で変な刺激を与えてしまったようだ。
真琴が消えてしまう訳じゃなくて良かった。
それに…アレをするのは健康の証拠…だよな?
夫婦なんだから…なあ?
これがセックスレスって奴か…?
不意にパジャマの裾が引っ張られた。
祐一「ん?」
祐一「
じっと俺の顔を見ていた。何か、考え事でもしているように黙ったままだった。
祐一「真琴…」
じっと真琴の顔を見つめた。
いつまでも一緒にいたかった、こいつの顔をじっと見つめていた。
真琴「祐一…」
祐一「…いいんだな? 真琴」
真琴は顔を赤らめて頷いた。
真琴が再び、熱を出した。
それがどういうことか、痛いほどにわかっていたから、俺はただ打ちひしがれるだけだった。
すぐにも寝入ってしまいそうだった。
祐一「大丈夫か、真琴」
真琴「………」
ただじっと、俺の顔だけを見ている。
祐一「何か…して欲しいことあるか」
真琴「………」
俺が指を差し出すと、真琴がそれを小さな左手で握った。
そして…
俺は顔中鼻水と唾にまみれていた。
発熱…
典型的な、只の風邪であった。
朝までふたりでやりまくった後、絶頂の余韻に浸りながら素っ裸で寝てしまったのが原因であった。
後先考えない自分の浅はかさには、ほとほと呆れる。
幸い…と言うか俺は風邪引かなかった。
だからこうして真琴の面倒を見てやれる。
ティッシュを真琴に渡し、俺も顔を拭く。
祐一「ほら、ちゃんと鼻をかめよ」
祐一「おい…真琴?」
戦慄する。
発熱して、まるで赤ん坊の様になっていたあの頃に戻ってしまったのか?
真琴は俺に手を差し出した。
俺は震えながらもその手を優しく握ってやろうとした…
親指と小指を立てた奇妙な握り拳を突き出していた。
鼻水垂らしたままで。
枕元には…謀図かずおの漫画があった。
体を張ったギャグをかます真琴。
そこまで元気になった事が幸いしているのか、それともそれこそが不幸なのか、よくわからなくなってきた。
【第十一話 名雪の災厄】
そして、いつものように名雪の眠そうな声が聞こえる。
祐一「早く食べて…おわっ!」
祐一「どうしたんだ?」
名雪は、右腕を激しく掻きむしっていた。
名雪「あとぴー」
祐一「……え?」
名雪「あとぴー」
祐一「……」
どうやら、完全に寝ぼけて無意識のうちに掻きむしっているようだった。
名雪「…あとぴーは、ここ」
祐一「わっ! 血が出てるじゃないか!」
再び掻こうとする名雪の左手を慌てて取り押さえた。
祐一「放すとまた掻きむしるだろ。お前は」
祐一「痒くても駄目だ! 益々悪化するぞ!」
と言っても我慢できたら苦労はしないんだよな…
祐一「
祐一「お前は悪くないしぴろも…誰も悪くない」
祐一「
でも、力を合わせて何とかしていけるだろう。
俺達は…家族なんだから。
俺達の元に真琴が現れた。
これは神様が見せてくれたおとぎ話だったんだろう。
だが、おとぎ話の結末はこうでなくちゃいけない。
『末永く幸せに暮らしましたとさ』
『めでたしめでたし』…と。
真琴「下ろしてようーっ!」
真琴「……」
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