9.ものみの丘
雪の中、ぽっかりと空いた穴から、年老いた狐が姿を現す。
「まだ降っておるのか。年の瀬はどうにも寒くてかなわんな」
老狐は空から舞い落ちる粉雪を眺めながら、人間の言葉でそう呟いた。
と、そこに大人の狐が二匹やってくる。
「ミワナ様、お目覚めですか?」
「お散歩でしたら、お供しますよ」
「いつもすまぬな、サナ、ウル。では、丘に参ろうか」
老狐と二匹の狐は、山を登り、その反対側にある小高い丘に出る。
そこは、見渡す限り一面の草原となっていた。
眼下には、人の住む町が広がっている。
「やっぱり、今年もここは積もらないんですね……雪」
「あれからもう五百年は経つのに」
サナ、ウルと呼ばれたオスとメスの狐達が眺めるその草原には、雪という雪が全く積もっていない。
先に見える町の屋根屋根は全て白で埋め尽くされているのに、である。
「じゃが、草はようやく生い茂りはじめた。いずれ、ここにも木が生え雪も積もるようになるじゃろう」
よたよたと、危ない足取りで草原に足を踏み出す老狐。
傍の二匹が慌てて彼の体を支えた。
あれから五百余年。
他の妖狐が死に絶えた中で、何故かミワナとサナ、ウルの三人は生き続けていた。
妖狐の本来の寿命は長くて二百、そもそもミワナに至っては当時ですら高齢だったはずである。
そう、彼らはモノミによって生かされていたのだ。
消え去ったモノミの代わりに、人間と妖狐の行く末を見守る者として。
人と狐の住み分けを提案したのも彼らである。
来るべき外界との交流が復活した際に不都合になると考えたミワナがそれを指示し、自らも狐の姿になって山へと帰った。
サナとウルの役目は、そんなミワナの手助けと若い者達の養育である。
どうしてモノミがこの三人を生かしたのかは分からない。
一番自分を気にしてくれていた親代わりの人と、一番行く末を気にしていた若い子供達。
それが三人が選ばれた理由なのだろうか。
だが、もう純血混血含めて、この地で妖狐と呼ばれる種族は彼ら三人しか残っていない。
人の血が混ざったものの性なのだろうか?
モノミなき後の妖狐達は、一人、また一人と、何かを求めて人里に降りていった。
中にはちゃんと人の姿を取れる者もあった。
しかし、妖狐の血が薄れ行く中で、多くは記憶障害を起こしたり、命を消耗したりと人の姿を取るのに何かを犠牲にした。
それでも、彼らは人里へ帰ろうとした。
彼らの遺伝子に、そこが帰るべき場所として刻まれていたのだろうか?
それとも、人里を愛したモノミの意思が彼らをそうさせるのか、真相は誰にもわからない。
ただ、事実として狐達は還っていったのだ。
「ミノリ、この町にいるのかな?」
「さあ、隣町かもしれないよ」
人間の言葉でモノミと同じ名前をつけられた最後の妖狐。
その『実り』も既に、人里へと還っていった。
「お主らも町に降りたいか?」
「えっ、まさか。掟は破れませんよ」
「私達がいなくなったら、ミワナ様は一人じゃ食べていけないじゃないですか」
「掟は人の血が混ざった者の為に作ったものだ。造作なく人の姿になれるお主達を縛るものではない」
『人里に降りてはならぬ』、ミワナはそんな掟を作って人と狐との間に生まれた子らの子孫を見守った。
人が突然いなくなる『神隠し』という現象をご存知だろうか?
それは狐の血、いや魔の者の血が為す現象なのだ。
妖狐をはじめとして、純粋の魔に属する者は死ぬと肉体が消滅する。
実体はないのに存在する、ゆえに魔である。
彼らの血が入った人間、または人間の血が入った魔の者は、時折二つの血が反発しあって、この消滅現象を起こしてしまう者がいるのだ。
疲労、消耗が引き金となることが多いが、中には突然姿を消す者もいる。
そして、姿を消した者が帰ってくることはまずない。
それが、人間の間で語り継がれる『神隠し』の真相である。
人の姿になるのもままならぬ妖狐が無理に人の姿を取って人里に降りようとすると、術による消耗で『神隠し』を起こす事態が多発した。
それは、人、狐、両方に悲しみしかもたらさない。
心を通わせあった者が、突然、あっという間に消え去るのだ。
どんなに悲しいことだろう?
ミワナはそれ故に、子孫達に対して『人里に降りてはならぬ』という掟を作った。
「掟など、いらなかったのかもしれぬな。こうしてお主らとだけ残されて、それでも良かったと思い始めた」
「何故です?」
右からミワナの顔を覗き込んで、首をかしげるウル。
彼は、丘の下に広がる町を仰ぎ見ながら答える。
「私達の一族が、モノミ様の子らが、この町この国で今も確実に生きている。我々は滅びぬ、人の中でこれからも生き続けるのだ」
そう言ったところで、ミワナは何かに気付いて自嘲した。
今度は左からサナが彼の顔を覗き込む。
「どうしました? ミワナ様」
「ふ、ふふ。いや……後の世まで生かされて、ふと思ったのだ。モノミ様は正しかったと」
丘に広がる草原の端には、風雨に晒されてそれと見分けがつかなくなったが幾つかの墓石が並んでいる。
蜩を斬った郷一郎が、モノミの怒りに焼き殺された城の者を供養するために生涯をかけて作り続けたものだ。
もちろん、彼が忠を尽くした坪内鬼六の墓石もある。
「モノミ様が人の里に降りたことは不幸をもたらした。しかし、滅びを迎えるはずだった我々が生き続けるのは、モノミ様が人と妖狐を結んでいたからじゃろう?」
「そうか、そうなんですよね」
「他の地でも、我々のように魔の者は人へと溶け込んでいったのだろう。この付近でも、狸、狢、鬼、竜といった同胞の匂いが感じられる」
「みんな……人の中で生きている?」
「そうじゃ。人がここまで大きな文明を築けたのも、ひょっとすると我々のおかげかもしれんぞ」
家屋に混じって立つビル。道路を走る車に、長い線路と電車。
五百年前の者がこの光景を目にしたら、何を思うだろうか?
そして、五百年後のこの地では、戦も日常とは遠く離れた存在となっている。
在りし日、魔の者は人よりひらめきなどの天性の勘に優れ、人にはない不思議な力を持つと言われていた。
その血を受け継いだ人間が、今は世界に溢れている。
ならば人間は、どこに向かっていくのだろう?
世界は今も決して楽観できるものではない。
だが、それでもミワナは思わずにはいられなかった。
モノミが間違っていなかったことを。
人間達にモノミがもたらしたものの大きさを。
彼女は、まさに『モノミ』だったのだ。
「あっ。ミワナ様、今度はどちらに?」
「蜩殿達のところじゃ。雪が降るとどうにも億劫になっての、この十二月に入ってからは一度も行っておらんかった」
「もうっ、そんなんじゃ怒られますよ。蜩さん達に」
「うむむ、あの近くに居を移した方がよいかもしれぬな」
サナにからかわれて、思わず苦笑いするミワナ。
老狐は狐二匹に脇を固めてもらって、雪の積もらぬ『モノミの丘』を後にした。
山を挟んで丘の裏側にある……かつて、妖狐の里があったところ。
そこには大きな切り株が鎮座している。
蜩や次郎、弥助の遺体が葬られた木の成れの果てである。
その木は、蜩達を知るものが生きている間は大切にされ、ミワナ達を除いて知る者がいなくなった二百年後には大きさから霊樹として崇められ、その意味さえ忘れ去られた五百年後にはこの地で一番の大樹へと成長した。
だが、八年前。登って遊んでいた子供が落ちたとかで、その木は切られてしまった。
もっとも、本当は山の開発を進めようとして住人の反対にあっていた業者が、これ幸いとばかり切り倒したというのが真相である。
山は、それを契機に開かれるはずだった。
ところが、である。
工事関係者は次々と事故や病気に見舞われ、祟り騒動へと発展し、開発は目処の立たぬまま止まってしまった。
ミワナ達はその祟りの真相を知っている。
蜩達の葬られた木を切ったことで、彼らはモノミの怒りに触れたのだ。
肉体を失っても、モノミの魂は、まだこの地この町で彷徨い続けている。
「やっぱり、ここ無くならなくて嬉しいです。モノミ様のお怒りに触れた人達はかわいそうですけど」
「ここ、僕達の故郷ですもんね。あそこに、僕とサナの家があって……あっちにミワナ様の、じゃなくてモノミ様の家があったんですよね」
切り株のあたりにできた広場、そこは妖狐の里の広場の面影を留めている。
雪が地面に積もった落ち葉や枝を覆い隠しているために、その日は一段と在りし日の姿を思い出させた。
それを眺めながら、ミワナは白い息を一つ、悪態をつく。
「祟られて当然じゃ。蜩殿達の眠る木を切るわ、我々の故郷を荒らそうとするわ……やはり、人間は好きになれんわい」
「ミワナ様、さっきと言ってること違いますよ」
「その中にも僕達の仲間がいるかもしれないんじゃなかったですか?」
「分かっておる。じゃが、それはそれ、これはこれじゃ。人間は礼儀を知らぬ馬鹿が多すぎる」
もっとも、墓代わりの木であることを知らなかったのだから、祟られた人間も哀れである。
知っていたら、木を切ることに躊躇する人間はもっと多かっただろう。
瘴気の霧が晴れ、外界との交流が復活して以来、この地を様々な人間が出て行き、また入ってきた。
その中でモノミや蜩の存在は忘れ去られ、人間側の伝承に残るのは丘を襲った厄災が変形して伝わったもののみである。
曰く、人に化けられる狐がいる、丘に住む不思議な生き物は厄災をもたらす、狐を怒らせてはいけない等。
口伝が主であった時代で起きたこと故、それは仕方のない帰着だったのかもしれない。
ふと、大樹の切り株に向かうミワナの足が止まった。
その目は何かを凝視し、その体はがたがたと震え出す。
寄せ合う体から、震えを感じて左右のサナとウルも足を止めた。
なんとミワナは、彼は泣いていた。
切り株を見ながら、震えて泣いていたのだ。
その視線の先には、切り株の端から生えた小さな芽。
「お、お、おおおお……」
言葉にならない想いがミワナの胸をかけめぐる。
八年前に切られた大樹、その切り株に生じた新しい命の息吹。
そんなことを起こせるのは、命を育む力を持つ者だけである。
「モノミ様……そこにいらっしゃるのですね……?」
そう、それはモノミの魂がそこに還ってきた証に他ならない。
五百余年の時を経て、彷徨い続けたモノミの魂が還り着いたのは、彼女の故郷であり、彼女が愛した者達の眠る場所だった。
木の芽の傍に駆け寄り、ミワナが泣きくずれる。
その姿をサナとウルは呆然として見守るしかなかった。
誕生からその最後まで、そして五百年後の未来まで……。
ずっと、ミワナは彼女を見続けていた。
今、ここで再び彼女と巡り合えたことに対する彼の胸中はいかばかりだろうか?
大好きな姉として慕う感情しかなかったサナとウルには、到底理解できない深い想いがあったに違いない。
やがて、泣きくずれた老狐は、ゆっくりと自分を見守る二匹の狐に振り返った。
何か、覚悟を決めた、それでいて優しい感じのするその目に、二匹は思わず居ずまいを正す。
「サナ、ウル。よくここまで私に尽くしてくれた。礼を言う」
深々と頭を下げる老狐。
幼少時には、悪戯に手を焼かされながらも、老人に楽しい思いをさせてくれた。
五百年、文句を言わずに自分を助け続けてくれた。
その礼には、これまでの全てに対する万感の思いが込められていた。
「私は、これからここで祈りを捧げ続ける。この町に住む我々の仲間達のために」
「祈り……では……?」
「そうじゃ、ここでお別れじゃ。お主らは、もう自由に生きてくれ。そして、幸せになるんじゃぞ」
「ミワナ様……」
「泣くでない。ここ最近、止まっていたこの体の時が動き出すのを感じていた。もう、迎えがすぐそこまで来ているんじゃ」
妖狐達の間で『祈り』とは特別な意味を持つ。
眷属には、主である土地神のような大きな力はない。
だが、命と引き換えにならば、それに類する力を発揮することが出来る。
それが『祈り』であった。
古くは、主を守るため、仲間を助けるためにその『奇跡』の力が使用されたという。
「ミワナ様!」
「今まで、ありがとうございました!」
ぺこっと、勢いよく頭を下げる二匹。
老狐はしばらくきょとんとしたあと、二匹に歩み寄り、老人の姿となってサナとウルを強く抱きしめた。
「ふぉふぉふぉ、人間もいいのう。こうして、両の手でお主らのぬくもりを感じられる」
「ミワナさま……ちょっと苦しいです……」
「でも、あったかい……」
二匹をしばらく抱きしめたあと、老人は狐の姿に戻る。
そして、老狐はゆっくり一歩一歩を踏みしめながら切り株へと向かった。
彼の体は一歩踏み出すごとに、うっすらと透けていく。
その足が切り株に触れた瞬間、彼の体は『祈り』となって消えた。
―――モノミ様、蜩殿。遅れましたが私もお傍に参ります。
その年の終わり。
人間達が聖夜と呼ぶ日に、幾つもの小さな奇跡が人の町に舞い降りたという。
とある場所に、命を拒み、降り積もる雪をも拒む丘がある。
そんな丘が何故生まれ、何故そのような名前で呼ばれるのか、人間達は忘れてしまった。
だが、その名前だけは忘れ去られていない。
その丘を人間達はこう呼ぶ。
ものみの丘――と。
(今年もあの丘を探しに行ってきました)
忘れもしません、四年前の話です。
持病の腰痛が激しくなったので、友人の薦めで温泉旅行に行ってきました。
その行きの列車で、仲の良さそうな夫婦と同席したのですが、その中年夫婦からこのお話を聞いたのです。
旅行から帰って、『ものみの丘』について調べてみました。
すると、確かにそんな名前の丘に関する記述が存在しました。
でも、おかしいんです。どこを探しても、その丘への行き方は載ってないんですから。
それどころか、日本のどこにあるのかも全く分かりませんでした。
じゃあ、『ものみの丘』は存在しない場所なのでしょうか?
いいえ、そんなはずはありません。きっとどこかにあると信じたいです。
このお話を僕に教えてくれた、その仲のいい夫婦の名前を何て言うと思います?
別れ際に彼らの名前を聞いて驚きました。
だって、彼らはサナとウルって名乗ったんですから。
慌てて呼び止めようとした時には既に彼らの姿はありませんでした。
本当のことを言うと、僕は『ものみの丘』がどこにあるか知りたいわけじゃないんです。
そこに行けば彼らにもう一度会えるんじゃないか、そう思って一つのキーワードとして『ものみの丘』を探し続けています。
僕は、もう一度彼らに会って訊いてみたいのです。
人間は変わりましたか?
それと……。
あなた達は今、幸せですか?
ってね。
【蹂躙されし不浄の地、ものみの丘 完】
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