それは土曜日の夜のこと。
風呂から帰ってくると、廊下でパジャマ姿の名雪が俺を待ち構えていた。
「駅前の映画館って、今何を上映してるか知ってる?」
「は?」
何を言い出すかと思ったら、いきなり何だ?
「また名雪好みのホラーでもやっているのか?」
「わたし、ホラーが好きなんて一度も言ってないよ……」
「そうか。一月にお前の紹介であゆとホラーを見たからな。てっきりそういう趣味があるのかと思った」
「紹介はしてないよ。それに、わたしも香里に連れて行かれただけだもん。怖くて散々だったよ」
……ほう。知ってて、そんなもん俺に見せたのか。
しっかり覚えておくからな、今の言葉。
「そ、そんなことより! 駅前の映画館、今何やってると思う?」
じーっと睨んでいると、名雪が慌てた様子で話題を元に戻してきた。
何でそんなこと、わざわざ待ち構えてまで訊いてくるんだ。
夕飯の時にでも言えばいいじゃないか。
「知るわけないだろ」
「祐一はクレイアニメって知ってる?」
くれいあにめ?
何だそりゃ?
いや、なんか聞いたことあるぞ。
くれい、クレイ……クレイモア?
「ああ、もちろん知っているぞ。対人用地雷のことだろ」
「え? じらい……?」
あれ?
自信満々に答えてみたが、なんか違ったらしい。
名雪の反応は今ひとつ芳しくなかった。
「祐一、クレイって粘土って意味なんだよ」
「ああ……そういえばそんな意味もあったな」
ということはアレか。
クレイが粘土なんだから、クレイアニメと言えば粘土アニメということになる。
そういえば、確かにそんな種類のアニメがあった。
「それに、地雷は『バズーカ』だよね」
「地雷は『マイン』だ」
地雷を豪快に発射するな。
「え? あ、ごめん。わたし、そういうのはあまり詳しくないから」
「兵器に詳しかったら詳しかったで何か嫌だから、それでいい」
いきなり目の前で名雪に『わたし、兵器オタクなんだよ〜』とかカミングアウトされても困る。
そんな展開はまずありえないだろうが。
あれ? 実は俺、ちょっと期待してたりして?
「とにかく、クレイは粘土って意味だから、クレイアニメは粘土のアニメって意味なんだよ」
「いや、それはもう分かった」
「わ、まだ全部説明してないのに。祐一って頭いいね」
お前、俺を馬鹿にしてるのか?
それとも、お前が馬鹿か?
相変わらず名雪の思考には付いていけないものがある。
「それでね、駅前の映画館でクレイアニメの映画をやってるんだよ」
「で?」
「とっても面白かったよ」
「よかったな」
「明日はお休みだよね〜」
「日曜日だからな」
いい加減、名雪問答にも飽きてきた。
そろそろ放置して部屋に入ってしまおうか。
「うん、日曜日だよね〜」
そう思った時、名雪の顔が突然ぱぁっと明るくなった。
な、何だ? そのあからさまにしてやったり、という顔は。
「彼女さんがいるのに、日曜日に家の中なんてよくないよね」
「ま、まあ、そうだな」
「クレイアニメの映画、かわいくて面白かったよ。あゆちゃんも、ああいうのは喜ぶと思うよ」
「あいつはお子様だからな、大はしゃぎだろう」
「うん、じゃあ映画を見に行くべきだよね〜」
「金がかかるだろう」
「うん、そうだよね。あっ、でも、こんなところに映画館のチケットが二枚」
実はさっきからずーっと気になっていたのだが、ここにきて名雪が背中に隠していた右手を前に出してきた。
その手に握られているのは、紛れもなく映画館のチケットだ。
「これはもう行くしかないよね。行くよね? 行くでしょ? 行かなきゃいけないよね」
「おい、なんだ、いきなりバナナの叩き売りみたいに……」
突っ込む間もなく、手にチケットを握らされる。
いらん、と突っ返そうとしたら、もう目の前に名雪の姿はなかった。
はっとして背後を振り返ると、あゆの部屋の前に回っている名雪の姿が……。
「あゆちゃーん、祐一が明日デートに行こうって言ってるよ〜。行くって言っておいていい?」
「え? ほんとっ!? 行くって伝言お願いするよ、名雪さん」
「ふぁいとっ、だよ」
「うんっ! ボク、明日は張り切っちゃうよ!」
パターン入られたーっ!?
ていうか、あゆよ、デートの約束を伝聞伝言って少しは不審に思ってくれ。
「ふぅ、よかった。うまく言えたよ」
あゆの部屋の前で、胸を撫で下ろしている名雪の姿に『明日はお休みだよね〜』からが誘導尋問であったことに気付いたのも時既に遅し。
気が付いたら、明日はあゆとのデートが決定していた。
しかし……よりにもよって、名雪にハメられるなんて……。
「うぐぅ」
「え? 今何か言った、祐一?」
あゆがなぜ鳴くか分かった。
俺には使いこなすことができないが。
……まあ、いいか。
行く場所さえあれば、二人で出かけるのも悪くない。
スカートに気をつけろ!
くるくるくるくる、くるっくー。
コンビニで買った胡麻を、腰掛けたベンチから路面に撒いてやる。
平和の象徴とか言われているマヌケ面した鳥達が、必死になって細かい胡麻粒をついばんでいた。
「馬鹿だろ、こいつら……」
よくまあ、あんな小さいもんをあの小さなクチバシで食えるもんだ。
ご丁寧に一粒ずつ何度も何度も地面を突付いている。
飽きるだろ、普通……。
どこまで平和な頭してるんだ、こいつら。
ぽっぽっぽー!
わらわらと鳩が足元に集まってきて鬱陶しくなったので、残っていた胡麻を袋ごと連中の頭上に降らせてやった。
互いの体に乗っかった胡麻を目がけて、容赦のないクチバシが振り下ろされる。
平和の象徴が、昼時の駅前で大乱闘を繰り広げている……ように見えた。
「はっはっは、しょせんは鳥か」
暇つぶしに鳩でもからかってやろう、と思って買ってきた胡麻がここまで役に立つとは。
明日、北川にも教えてやろう。
ばら撒かれた胡麻を巡って仁義なき抗争を繰り広げる鳩達から離れ、二つ隣のベンチに移る。
いつまで続けるのだろうか、と見ていたら、数分後に鳩達は胡麻を完食して去っていった。
「ピラニアかよ、あいつらは……」
あの獰猛な食べっぷりの、どこが平和の鳥だ。
床一面糞だらけにして去っていくし、品格にも欠ける。
原因は俺だけどな!
なんか気分いい。
そう、我こそは鳩の支配者!
「はぁ、まだかな……あゆ」
鳩なんか何羽来たって、どうでもええっちゅーねん。
俺が今待ってるのは、あゆ。
鳥でも魚でもなくて、人間のあゆなんだ。
だいたい、何で同じ家に居候してるのに、デートの待ち合わせなんかしなきゃならないんだ。
なーんて、まあ普通ならそう思うところだが、こういうのはパターンだ。
同じ家に住んでるのに、デートとなると男を先に待ち合わせ場所に行かせる。
はい、そこから導き出される結論は何ですか?
小学生でも答えられる。
いつもとは違うおめかしして来ようって、魂胆が見え見えだ。
お約束なら、幼稚園や小学生の女の子は化粧に失敗して現れる。
……まあ、それやってたらデートは即刻中止して家に連れ帰るが。
化粧事故お化けを彼女と称して連れ回す根性も非常識も、俺は持ち合わせてはいない。
向こうからあゆの姿が見える。
とりあえず、今すぐ連れ帰る必要はないようだ。
別の意味でどうかと思うが、そもそも化粧してないし。
というと、気合入れたのは服装ってことになる。
まあ、多分そういうオチだろうなあと思った格好そのままだった。
俺の姿を見つけたあゆが、笑顔で俺に手を振りながら駆け寄ってくる。
お約束なら、ここの第一声はこうだろう。
「ごめん、待った?」
「ごめん、待った?」
うお、あぶねっ!
ごつん!
とっさにベンチから飛びのいて正解だった。
「何でボクより先に言うの!」
「いや、すまん。ついフライングメッセージしてしまった」
「それに避けるなんて、あんまりだよ! 見てよ、このおでこ」
「いや、今のは普通に俺の身が危ないだろ?」
ものすごい勢いでずっこけてきたし。
心なしかベンチがヘコんだように見えるし。
まあ、あゆはもっと痛そうだったが。具体的にはおでこ真っ赤。
これはひどいファンデーションミスだ。
原因は俺だけどな!
してやったり、と一瞬ガッツポーズとりたくなってしまったのは腐れ縁の『サガ』か?
さすがに、それやったら、俺が連れ帰るまでもなく自主的に帰ってしまうだろうから自重しておく。
「恋人なら普通は受け止めるものだよ!」
「まったくだ。俺も今そうすべきだったと気付いた。すまん」
「謝るところおかしいよ……うぐぅ」
頬を膨らませて怒鳴ったかと思えば、肩を落としてしょんぼり。
相変わらず、からかいがいがある。
次はにこっと微笑んで、こう言うのだろう。
「それで、どうかな? 何か変わったところない?」
「それで、どうかな? 何か変わったところない?」
お、当たり。
「何でボクより先に言うんだよ!」
「いや、展開が読めて、つい……」
「その前に空気を読もうよ!」
怒らせてしまった。
それにしても、空気読めとは、なかなかうまいこと言ってくれる。
「もうっ、やり直すよ」
ため息一つに乗せて、怒気を吐き出すあゆ。
そして、また、にこっと微笑んだ。
「ごめん、待った? それで、どうかな? 何か変わったところない?」
がんっ!
「え? あれ? どうしたの?」
「はしょるな、どアホ!」
今度は俺がずっこけた。
ベンチにぶつけた肘が痛い。
「もう、似合わないことはやめろ。ほら、映画行くぞ映画」
「わぁっ、ちょっと待ってよぉ……」
頭抱えて映画館に向かおうとした俺の左腕にあゆがしがみつく。
あの、そこ痛いんだが。今ぶつけて。
「何でもいいから感想言ってよ、うぐぅ」
うるうる、と今にも泣き出しそうな目であゆが俺を見上げていた。
おい……上目遣いとかなら分かるが、何だそのお菓子を買ってもらえなかった子供が、わんわん泣きます三秒前な顔は。
しかたないな、コメントしてやろう。
こんなとこで子供泣きされても困る。
「スカート履いてきたんだな」
やっと、その事実を口にしてみた。
すると、あゆの顔がぺかーっと明るくなる。
「そう、そうだよ! 気が付いたら、ずっとズボンばっかりだったし、今日こそはって用意してたんだよ」
「それはお前がよく転ぶから。パンツ、見えないように気をつけろよ。いつもの調子で飛んだり跳ねたり、すべったり転んだりするなよ」
「ボク、すべったり転んだりなんかしないもん」
ウソつけ。しょっぱなから人間魚雷と化してただろ。
「七年前はスカートだって、はいてたんだよ。女の子なんだから、スカートもはきこなせるよ」
「んー、今思うと隙だらけだったと思うぞ、七年前のお前。黙ってたけど、何度か白いの見えてたし」
「わぁっ、なんてこと言うんだよっ!」
ぼんっ、とあゆの顔が真っ赤に染まる。
この駅前で『すけべ!』とか叫ばれたらどうしようか、と思ったけど、幸いにして恥ずかしさで声を失ってくれたらしい。
ちょっと残念なようで一安心。
……って、俺は何に期待してるんだ。こんな場所で、言われてみたかったのか?
「さあ、満足したら映画に行こうか」
「うん。って、ちょっと待ってよぉ!」
歩き出そうとしたら、また腕にしがみつかれた。
また泣きそうな目でこっちを見ている。
「それだけ?」
「何が?」
あゆが視線を下にやる。
スカートについてそれだけなのか? ということらしい。
「ふむ……」
見覚えのないスカートだ。
今日のような日を考えて買った新品かもしれない。
裾は膝より高く、野暮ったくもなければ、けばけばしいこともないくらいだろう。
上との着合わせも悪くない。
「あゆ、ちょっとスカートの裾をつまんで持ち上げてみろ」
「え? こう?」
「そうそう。レディがお辞儀するときによくやるそれ」
両手でスカートの裾を持ち上げていくあゆ。
それにしたがって、つるんとした太ももが露になった。
「こ、こうかな?」
「いい感じだ。もう少し」
「う、うん」
つつつ、と裾が上がっていく。
そして、あと少し、と思ったところで白いフリルが覗いた。
意外だ。あゆがこういう値の張りそうなパンツに手を出していたとは。
「勝負パンツとはやるな」
「うぐっ!?」
ばばっとスカート前面が両手で覆われる。
「ゆ、祐一君のすけべ! 何させてるんだよ!」
「いや、別にスカートの中身が見たかったわけじゃないし」
すけべ、の叫び声に周りの人の視線が集まるのを感じる。
いい、なんかいい。彼女といちゃついています、ってアピール真っ最中なのを感じる。
そう、探していたのはこれなんだ。
「しかし……」
「何? もう見せないからね」
「見せないでいい」
公衆の面前でスカート持ち上げて、下着を見せて回ることに快感を覚える女なんて隣を歩きたくない。
そういうのは『あっ、やっちゃった』って失敗っぽいのがいいんじゃないか。
分かってないなあ。
「うぐぅ、何でボクのことじろじろ見てるの?」
「いや、その……」
不審そうにこちらを警戒しているあゆの視線は無視して、頭のてっぺんから足の先まで観察してみる。
確かに足はきれいだ。
手入れなどしていないだろうが、にもかかわらず、つるんとしてて、ぷにっとした感じが見た目にも分かる。
美脚と言っても問題はないだろう。
スカートはその魅力の強調に効果的だ。
しかし、あゆは背が低い。
俺から見ればいつも見下ろす形になるし、そうなると当然足はあまり目に入らない。
肝心の太ももも、スカートの裾上げさせてみたら、すぐにパンツに到達してしまったわけで……。
「改めて見ると、魅力的な女性だと思ってな」
「え? ほんと?」
「ああ、本当だとも。似合ってるぞ、あゆ」
「うわぁ、祐一君にそんな真面目な顔して言われるなんて……ボク、自信持っちゃおうかなぁ」
「ああ、がんばってもっと自分を磨いてくれ。期待しているぞ」
「うん」
なんて悲しいまでに色気がないんだろう、こいつ……。
いい素材は揃っているのに、全部寸が足りてない。
どれだけ飾っても、ヒヨコはヒヨコだ。ヒヨコの域を出ることはない。
かわいそうになってきたので、精一杯の褒め言葉を送っておいてやった。
磨けば光るぞ、多分。さしあたっては、牛乳に相談だ。
「いいか、あゆ。スカートもいいが、人間大事なのは心だ」
「え? いきなり何?」
「だから、心温まるクレイアニメでハートを磨きに行こう。そうしよう。さあ、行くぞ」
「わわっ、引っ張らないで〜」
いたたまれなくなってきたので、きょとんとしたままのあゆを引きずって映画館に突貫した。
入る前、平和の象徴に罰当たりなことやっていたにもかかわらず、映画館の中は平和だった。
まあ、ホラーじゃなきゃ、あゆが騒ぐこともないか。
横からはひっきりなしに『わぁ〜、わぁ〜』と感嘆の声が上がっている。
いや、しかし実際凄いなこのクレイアニメ。
アニメなんていうから、子供向けなのを想像していた。
確かに、話の内容はネズミと猫がおっかけっこしているコメディと同レベルのお子様向けだ。
あゆが満足するのも分かるし、俺もまんざらでもない。
下手なラブストーリーなんかより、よっぽど面白いだろう。
しかし、これだけよく動くアニメが全部粘土で作られてるなんて、にわかに信じられるだろうか。
作品を通して、作り手の職人芸の素晴らしさに自然と頭が下がる。
こういう造詣を楽しめるようになったのは、俺も一つ大人になった証なんだろうか。
「すごかったね、祐一君。これ、どうやって作ったのかな?」
……噛み締めた成長は、あゆと同レベルだった。
すこしショック。いや、あゆだって子供のままじゃないってことか。
「普通アニメって一コマ一コマ絵を描くらしいが、クレイアニメはそれを粘土でやってるらしいぞ」
「ええっ!? じゃあ、今の映画、どれだけ粘土の像を作ってたんだろ?」
「さあ……」
恐ろしく手間のかかる作業なのは間違いない。
まさに、職人芸だ。
「まあ、とりあえずはこいつを紹介してくれた名雪に感謝だな」
「うん。あー、面白かった〜」
スタッフロールを背景に、映画の感想を語り合う。
こういうのは、ちょっと恋人気分かもしれない。
そして、あゆが伸びをしながら立ち上がった。
ぐぅ。
「おい、今の音……」
「あ、あはは、楽しすぎてお腹減っちゃった」
がくっときた。
色気も何もあったもんじゃない。
屁をされるよりは断然マシだが。
映画館でヘコキムシとか、勘弁して欲しい。マジで。
「どこかで何か食うか?」
「じゃあ、あのおじさんのお店でたい焼き!」
「え? あのおやじ、帰ってきたのか?」
「うん、昨日商店街でお店の準備しているの見たよ」
へえ、もうそんな季節なのか。
あゆが退院したころには、もうどこかに行っていたんだが……。
また(あゆが)お世話になるんだろうし、挨拶がてら行ってみるか。
時間も三時過ぎだし、少し何かを食べるにはちょうどいい頃合だ。
「よし、じゃあたい焼き屋いくか。しかも、今日は俺のおごりだ!」
「わーいっ、祐一君太っ腹」
「おうっ! 任せろ!」
馬鹿にされているとも知らずに、のんきなやつめ。
とりあえず、500円ばかり払っておけば開店祝いや(あゆの)迷惑料としては十分か。
あのおやじは気がいいから、冬の間通っていれば余裕でそれくらいはサービスしてくれるだろう。
500円で信頼関係が築けるなら安いもんだ。
映画館のバイトからポップコーン買ったって、そうはいかない。
「祐一君、こっちこっち〜」
「場所は知ってるって。急かすなよ」
「1月とはちょっと違う場所なんだよ」
「そうなのか」
「だから、責任持ってボクが案内するね」
「走らなくていいから、普通に案内してくれ」
来た時とは逆に、上機嫌のあゆに引っ張られて映画館を後にした。
あの小さな体のどこに俺を引っ張るような力が隠されていたのか。
恐るべし、たい焼きパワー……。
人で賑わう休日の駅前から離れ、商店街まで戻ってきた。
「んっ、はぁーっ」
大きく深呼吸。
ここの空気を吸うと帰ってきた、という気分になる。
人の数は大して変わらないが、空気が違うんだろう。
駅前と違って、こっちは生活臭みたいなのが漂っている。だから落ち着くんだ。
「やっと帰ってきたね。んーっ」
あゆもしみじみとした様子で、横で大きく伸びをしていた。
同じこと考えていたのか、と思うと少し恥ずかしい。
ん? んんっ!?
き、気のせい……か……?
「たい焼き屋さん、あっちにいるんだよ」
あっち、と言いながら全身で背伸びして魚屋の先を指差す。
多分、その向こうの方にあるって言いたいんだろう。
だが、そんなことは今となってはどうでもよかった。
気のせいじゃない。今、確実に俺は見た。
いや、今も見えている。
スカートから……あゆのパンツがずり落ちているのが……。
あの裾から覗く白がパンツ以外のなんだって言うんだ?
「祐一君、どうしたの?」
「え? いや……」
「ほら、行かないとたい焼き食べられないよ」
何の異常もない様子で、あゆが俺の腕を取る。
まさか、気付いてない……のか?
気取られないように、そろっと視線をあゆの下半身に向ける。
どう見てもありゃパンツだ。映画館入る前にあのフリル見たし。
サイズが大きかったのか、ゴムが緩んでいたのか、どういう理由かは知らないが、あゆは今まさに半ケツで間違いない。
何で気付いてないんだ?
普段ズボンはいていたから、スカートだと半ケツでもスースーして違和感ないとか?
裾からちらちら見えているだけだが、意識しだすと非常に気になる。
それはもう、一本だけ異常に長い鼻毛が出ているのを見つけたときの気持ちのように。
「ねえ、祐一君。ボク、別におごってもらわなくてもいいよ?」
「どうしたんだ、突然」
「だって、何だか行きたくなさそうだし……。お財布ないんだったら、今日はボクがおごるよ。ボクちゃんと持ってるから」
「ば、馬鹿言うな! たい焼き一個や二個ごときで俺がケチると思うのか? 見くびるな!」
「なら、いいんだけど。じゃあ、行こうよ」
どうやら足が止まっていたらしい。
あゆは不思議そうな顔をしながら、また歩き出した。俺の手を引っ張って。
スカートの裾が揺れるたび、その隙間から白いのがチラチラ見える。
非常に気になる。
それに、これ本人気付いてないなら、悲惨だよ……な?
「おい、あゆ」
「えっ?」
腕を引っ張り、こっちを振り向かせる。
「お前、パ……」
ちょっと待て。
俺は何を言う気だ?
こいつに向かって『はみパンしてるぞ』とか言うのか?
それって、さっきからパンツ見てて上の空でしたって告白しているようなもので……。
じょ、冗談じゃない! そんな屈辱的なこと死んでも言えるか!
だいたい、見惚れてたわけでもない。異常に長い鼻毛と同レベルの目で見ていたんだ。
鼻毛を抜きたい、と思うのと同じ衝動において、俺はパンツを直したいと思っているんだ。
しかし、『はみパンしてるぞ』なんて言ってしまえば、どう思われるか分かったもんじゃない。
「パ?」
「パ……パパはどうしてるんだろうな?」
「忙しいみたいだよ。あっ、そういえば、お父さんと最後に見た映画ってアニメだったよ。うわぁ、懐かしいなぁ」
な、なんとか誤魔化せた。
あゆは思い出に浸っているのか、足を止めて上の空になっている。
チャンス!
古典的な手法だが、あの手で周囲もろともに注意を逸らしたあと、パンツを気付かれぬよう修正する。
大きく息を吸い込み、あさっての方向を指差して叫んだ。
「あれは何だ!?」
えっ? という感じに、あゆを含めて周囲の人の目が指差した方向を向く。
今だ! あゆの背後に回って……。
どんがらがっしゃーん!
はえ?
ナンデスカ今ノ音ハ?
はみ出したパンツにかけようとした手が止まる。
顔を上げると、太ったおばちゃんが自転車で魚屋の店頭に突っ込んでいた。
ハマチの横で添い寝する姿は、まるでマグロ。
「えっ? ええっ!? 祐一君、何したの?」
「いや、俺は何もやってない……んだが」
しかし、おばちゃんが突っ込んだ先は、間違いなく俺が指差した方向だった。
あんなでかい声を出したものだから、周囲の人間もみんなそれを見ている。
誰が見ても、俺が何かやったせいで、おばちゃんが魚屋に突っ込んだ構図だった。
「おい、ちょっとそこのキミ! 今何をしたんだ!?」
ぎゃあああ、よりによって何でこんなタイミングでいるんだポリスメン!
逮捕オーラを全開にして、警官がこっちに歩み寄ってくる。
お、俺は何もやってない。
指差した先で、たまたまあのおばちゃんが勝手に魚屋に突っ込んで陳列品のマグロになっただけなんだ!
と、説明して分かってくれるだろうか……?
かなり無理がある。俺が何かやって、ああなったと考える方が自然だ。
「祐一君!」
「え?」
おいおいおい、ちょっと待て。
何か、ものすごく嫌な予感が……。
「こっちだよ! 早く!」
「あっ、こら! 待ちなさい!」
あゆは俺の手を取って、全力で駆け出した
やっぱそれかよ!
あああああ、ヤバいって分かってるのに、足が理性とは逆の行動を!
商店街の路地から路地を抜け……。
見覚えのある並木道に着いた時には、警官の姿はなかった
「はぁ、はぁ、なんとかなったね」
「あ、ああ……」
やっちまった。
やっちまったよ、おい。
警官撒くなんて、ヤバすぎだろ!
どうするんだよ、俺。
「まあ、逃げてしまったものはしょうがない」
こうなった以上、素直に話して信じてもらうしかないだろう。
逃げ回っても秋子さんたちに迷惑がかかる。
それに、あのおばちゃんが自分で勝手に転んだだけだって、もう分かっているかもしれないし。
物事は楽観的に考えよう。
「びっくりしたよ。祐一君、何であんなことするんだよ」
「お前が原因だ! よりによって、巧妙な逃走経路使いやがって。別のことまで疑われたらどうしてくれるんだ!」
楽観的に考えられるか、ボケェ!
疑われたら最悪なトコまで行きかねないこと、やってしまったわ。
ああ、もう頭痛い……。
「ボク、何もしてないもん。祐一君がいきなり」
「あれはお前のパ……」
お前のパンツを修正するため、と言いかけて息を飲み込んだ。
この上、ヘンタイの誤解まで受けてたまるか。
まったく、パンツなんか気にして損した。
怒りを込めて、こんな騒動に巻き込んでくれたパンツを睨みつけてやる。
しかし、スカートの裾から覗いていた白いものは見えなかった。
「って、あ、あれ!?」
「ど、どうしたの!?」
な、ない?
逃げている最中に戻ったのか?
そんな馬鹿……な……。
のおおおおおおっ!?
思わず絶叫しそうになった。
なんてこった。
足首のとこまで落ちてやがる!
ていうか、片足にかろうじて引っかかってるだけだ。
「あ、あのさ、あゆ」
「な、何かなっ!?」
さすがにこれは言わないわけにはいかないだろ。
そう思って、あゆに声をかける。
すると、あゆはひどく焦った様子で顔をこちらに向けた。
「いや、その、何か変わったことはないか?」
「さ、さあ? ボクはいつもどおりだよっ」
その割には顔が赤い。
言葉もしどろもどろしている。
もしかして、気付いて……?
いや、でも、もしかしたらまったく違うことかもしれないし、やっぱり言った方がいいのか。
でも、何て言う?
もうここは黙ってパンツに手をかけて、直してやるほうが男らしいのだろうか?
「祐一君、ボク用事があったんだ。すぐ戻るから、ちょっと待ってて」
なんて、迷っているうちに、あゆはぴゅーっと向こうの木の陰に消えた。
数秒ほどして、戻ってくる。
消えた時の焦った赤い顔とは打って変わって、落ち着いた様子だった。
「お待たせっ。待った?」
「いや、別に」
一分も経ってないし。
足首を見ると、そこにパンツはなかった。
よかったよかった、やっぱり気付いていたのか。
おかげで恥ずかしいセリフを口にしないで済んだ。
「よし、逃げたままじゃマズいし、たい焼き食いに商店街戻るか」
「うん、走ったから余計にお腹すいちゃった」
ぽんぽん、とあゆの肩を叩いて歩き出す。
途中、さっきの警官とすれ違った。
おばちゃんは、うっかりペダルを踏み抜いて魚屋に突っ込んだらしい。
一生ハマチと添い寝してろ、と思った。人騒がせな。
夕日で赤く染まった商店街を歩く。
片手には、湯気を立てる懐かしい茶色の包みを抱えて。
「はふはふ、やっぱりたい焼きは焼きたてが一番だよね」
「俺はどうせなら茶も欲しい……」
「そう言うと思って、はいっ」
「お、気が利くな」
「えへへ、たい焼きのお礼だよ」
映画館を出るときにでも買っていたのか、あゆがバッグからペットボトルのお茶を渡してくれた。
餡や和菓子にはお茶、やっぱりこれだね。
「ね、ねえ、祐一君。今のボクたちって、他の人からどう見えているのかな?」
「そりゃ、恋人なんじゃないか? 誰もが振り向くベストカップルだ」
すれ違う人達が、みんなこちらを振り返る。
その視線にあゆも気付いたのだろう。
「ボクたち、いつからそんな関係になってたんだろ?」
「あゆのスカート姿に、みんな見とれてるんだ」
「ええっ!? ぼ、ボクなんて、そんな大したことないよ」
とか言いつつ、もじもじしながらも結構あゆは嬉しそうだった。
でも、やっぱり、道行く人が俺達を振り返るのは、あゆがかわいいからなんだろう。
その前提がなければ、みんなすぐに視線を外すだろうし、あゆも見られていることに気付かなかったはずだ。
今、俺達は商店街の人の注目を集めていた。
「今日の晩飯、なんだろうな?」
「楽しみだね」
そんな中を、ぎゅっと手を繋ぎながら何気ない会話をして歩く。
俺達の関係は誰の目にも明らかだろう。
ああ、たまらない。
なんだろう、この甘美でゾクゾクする優越感は。
これが見せ付ける、という悦びか。
そして、その瞬間ももうすぐだ。
「ただいまー」
「あ、ふたりともおかえり……」
水瀬家の玄関をくぐる。
出迎えてくれた名雪の表情が凍った。
「あ、あゆちゃん……?」
「どうしたの、名雪さん?」
名雪の異変を、きょとんとした表情であゆは見つめている。
そんなあゆに対して、名雪は恐る恐る人差し指を向けた。
大いに問題あるその場所へ。
それでも、親しい人以外は指摘しないであろう、大いなる問題を。
「あゆちゃん、何でスカートが半分パンツの中に入っているの?」
「えっ?」
くるりと首を後ろに回すあゆ。
きっと、パンツはサイズが大きかったのだろう。
だから、あるべき位置から落ちてしまった。
そんなパンツを元に戻したところで、動けばまたすぐに落ちる。
それでも、帰り道パンツが落ちなかったのは……。
巻き込んだスカートの厚みの分だけ、あゆのウエストが水増しされていたからに他ならない。
つまり……。
「うぐぅ〜〜〜〜っ!」
月宮あゆは、その日おパンツ丸出しで夕方の商店街を闊歩していたということである。
恥ずかしさのあまり二階に駆け上がるあゆを見て、俺は腹を抱えて大笑いしたのだった。
まあ……。
「あゆちゃん、晩御飯だよ。出てきて」
「おい、あゆ、悪かった。黙ってて欲しそうだったから、黙ってたんだ。ぷぷっ」
「祐一、笑わないの! 彼女さんをあんな格好で歩かせるなんて非常識だよ!」
「いや、でもな、あゆ、みんなが振り返ったのってお前がかわいいからだぞ。そうじゃなきゃ、すぐに目を背けるって。むしろ喜ぶべきだ」
「祐一! 慰める気がないなら、どこかに行ってて!」
その後、閉じこもってしまったあゆの機嫌を直すのには数時間を要したが。
余談ではあるが、翌日学校で香里に映画を見た話をすると、香里が人の変わったように話し込んできた。
「24分12秒からのアクションが凄いでしょ?」
「粘土なのに汗をかかせるとか、細かいところに凝ってるのが信じられないわ」
「音楽のセンスも最高だったと思わない? コミカルな作風にきっちり合わせてきているんだもの」
「あのシリーズ、他にもあるのよ。一作だけなんてもったいないわ、全部見なきゃ語れないわよ」
などなど……。
休み時間のたびに話しかけられて、もうウンザリだ。
そんな細かいとこまで覚えてないっての!
名雪が俺に映画を見せた理由が分かった気がする。
このミーハーに連れて行かれて当たり映画なんか見た日には、どえらいことになるだろう。
実際なってる。名雪のヤロウ、俺を身代わりにしやがった。
そのことを男子トイレで北川に愚痴ると、意味深な笑みを浮かべてこう言われた。
「美坂の前でゴジラシリーズの話だけはするなよ。一時間は解放してもらえないぞ」
……ああ、もうこいつの前で映画の話だけはすまいって思ったよ。
ちくしょう、これも平和の象徴をからかったり、あゆに羞恥プレイさせて楽しんだ天罰か。
チャイムが鳴った。
香里がまた顔を輝かせて俺の席にやってくる。
名雪と北川は既にどこかに逃亡した。
ああ、もう早く家に帰ってあゆの顔を見たい。
「うぐぅ」
あゆがなぜ鳴くか分かった。
今なら使いこなせる気がする。
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