静まりかえる病室で、ユキが眠っている。
ユキの顔を見る。
やせてしまって病状が深刻になっているのがわかる。
指先すら、わずかに細くなっている。
こんなにやせたのは、もう食事をとれる状態ではなかったからだ。
だけど、ユキは必ず一口は、食べてくれた。
だから、わたしは頑張って毎日、お弁当を作った。
でもそれも、そろそろ終わってしまうのだろう。
そんな状態になっても、ユキは必死に何かをしようとしていた。
勉強をしていた。
将来のことを語っていた。
おなかの子供とわたしのために、いつも何かをしていた。
でも、終わってしまうのだ。
こうなってしまうことは、最初から知っていた。
ずっと前に、ユキを診てくれている先生に聞いていた。
でも、ユキには言えなかった。
もう一度、眠っているユキの顔を見た。
込み上げてくるもので胸がいっぱいになる。
駄目だった。
とても、見ていられなかった。
わたしはユキから目を逸らして、窓の外に目を向ける。
そのとき、空に何かが舞っているのに気付く。
「あ…」
雪。
雪が降ってくる。
たった一粒だけの雪が。
時の流れに沿うように、緩やかに、滑らかに。
空から舞い降りてくる雪は、吸いこまれるように、わたしの目の前にある窓にくっついた。
わたしに向かって飛んできた雪。
わたしの顔を目掛けて飛んできた雪。
雪は結晶を見せ、水滴へと変わる。
そうだ。
思い出した。
わたしはこの街にいた。
この街から、始まった。
荘厳な雪の景色を初めて見せてくれたこの街に、確かにわたしはいた。
必ず帰って来るよ。
ユキにわたしからした、唯一の約束。
そのときわたしは願った。
今度会ったときには、ずっと一緒に居られることを。
そして、
もう一度、わたしたちは出会えた。
再び始まった、ユキとの穏やかで楽しい日々。
想いが重なり深くなっていく日々。
ずっと昔から、ずっと続いていたもの。
それが、もう終わる。
そして、気が付いた。
ユキは、自分がどうなるのかを最初から知っていた。
だからユキは伝えたかったんだ。
最後まで、一生懸命にやっている姿を見せることによって。
わたしとおなかの子供に伝えたかった。
わたしに見せてくれた、たくさんの想い。
自分がこの世界から消えてしまう、その瞬間まで。
わたしとおなかの子供のことを想っていた。
強く、深く、想っていた。
とても不器用だったけれど、間違いなく私とおなかの子供を想っていた。
ユキは願っていたんだ。
自分が消えてしまっても、わたしとおなかの子供が強く生きられることを。
ユキは知っていたんだ。
わたしとおなかの子供にとって、本当に大切なことを。
だから、ユキは…。
わたしは、ベッドの上のユキの姿を確認する。
ユキはこちらを見つめていた。
「最初から、知っていたのですね」
もう顔を動かすのもやっとのユキだったけれど、笑顔を見せてくれる。
ユキは、声を出してもかすれた音しか出せない。
でも、また冗談でごまかそうとしているのだろう。
実際そうなのだ。
そんなときでなければ、こんな笑顔にはならないことをわたしは知っている。
「確かに……確かに受け取りました」
静まりかえる、病室。
伝えたかった想い。
伝わった想い。
ユキが、したかったこと。
静寂のなかで、ユキが息を吸い込んだ。
「そうか、良かった」
「ユキ!」
ユキのまぶたがゆっくりと閉じられていく。
まだ。
まだ、終わってしまってはいけない。
ユキにはまだしてほしいことがある。
わたしは、近くにあった育児書を手に取った。
「ユキ」
わたしは小さな声で、でも強く呼びかける。
「起きてください」
わたしは焦ってしまう。
このまま眠ってしまったら、終わってしまう。
もう一度、呼びかけてみる。
「ユキ!」
もう一度、目を開いてくれた。
わたしは、ユキの目の前に育児書を差し出す。
「よく聞いて下さい。おなかの子供は女の子です」
それを聞いたユキの目に、生気がこもるのが見てわかる。
わたしは、一語ずつはっきりと発音しながら話す。
「今から、ユキにやってほしいことがあります」
そう。
ユキは、おなかの子供に出来ることがまだある。
「育児書が目の前にありますね。
育児書の中にある漢字や文字に、指をさして下さい。
そして、おなかの子供に名前をつけてあげて下さい」
ユキは深呼吸をした。
そして、全身に力を込める。
でも、動かない。
「お願いです」
この子に少しでも、
少しでも多くユキの想いを…。
「指をさして下さい」
ユキから、残してあげられるものを少しでも多く。
「頑張って、ユキ」
ユキの表情が厳しくなる。
ユキの腕が伸びる。
体中の力を振り絞って、その腕を伸ばす。
ゆっくりと、手が育児書に近付いていく。
そして、ユキの手が育児書にやっと届いた。
「もう少しです、頑張って」
育児書を支えている、わたしの手にも力がこもる。
そのわたしの手に、ユキが触れてきた。
優しい温かさがわたしの手に伝わってきた。
わたしの手から力が抜ける。
ここでもう一度、ユキは深呼吸をする。
そして、わたしが押さえつけていた育児書のページをめくった。
ユキの指が、文字の上を滑っていく。
納得いくものを探している。
良い名があるのだろうか。
わたしは早く見つけてくれることを祈った。
なおもユキの指が、文字の上を滑っていく。
右のページの端から探し始めたが、もう左のページの隅まで指が動いている。
このままでは、もう1ページめくらなければならないかも知れない。
しかし、文字の上を滑っているユキの指先は、ゆっくりになって、
止まった。
わたしは育児書を覗きこみ、ユキの指さしている文字を読み取る。
ユキの指の上には『名』の文字がある。
「名…」
そしてユキの指がゆっくりと動き、
その指先がユキ自身に向いた。
「雪…」
ユキがゆっくりと頷く。
「名雪、名雪…」
ユキは今度はさっきよりも大きく頷いた。
「名雪…良い名前…」
その言葉で、ユキの顔から緊張が抜ける。
そして満面の笑み。
いつも見続けて来たその笑顔は、とても穏やかで優しい。
口元と目元がユキの人柄を表している。
本当に、穏やかで優しい笑顔。
ユキのまぶたが下がってくる。
口元は笑ったままで、まぶただけがゆっくりと下がってくる。
そして完全に目が閉じてしまった。
目を閉じたままで、ユキはもう一度、大きく微笑んだ。
そしてユキは…。
雪。
雪が降っていた。
僅かな陽射しと黒い雲を覆い隠すように、真っ白な雪が空から舞い降りてきた。
螺旋を描きながら、絶え間なく降り続く雪。
降り続ける、小さな結晶達。
その一粒一粒が、白い光を放っている。
一粒の雪が空から地面まで落ちてくる間に、どれだけの人がこの白い輝きを見られるの だろう。
この街を歩くたくさんの人々。
その中で、どれだけの人がこの雪に想うのだろう。
わたしは想う。
この雪が降り続けたことを。
そして産まれた物語を。
わたしは絶えることなく降る雪を見続ける。
空気を切る風の音。
窓ガラスが風で叩かれ、激しい音をたてる。
その音にびっくりしてか、わたしの腕の中で寝ていた子が目を覚ます。
そして大きな声で泣き出した。
部屋中に響き渡る、大きな泣き声。
その声の大きさがそのまま、この子の想いの大きさに繋がっている。
わたしは、腕の中の子の頭を撫でた。
腕の中の子は素直に泣きやみ、こちらを見つめてきた。
その瞳には、何が映っているのだろうか。
わたしを見つめて、何を感じ、何を想うのだろうか。
腕の中の子は、わたしに微笑みかける。
わたしも微笑みを返す。
すると、もっと嬉しそうな顔をする。
わたしが、微笑みかけると喜んでくれる。
当たり前のことかもしれないけれど、わたしは嬉しかった。
自分のいる場所を見回してみる。
外は相当の冷え込みなのだろう。
窓のふちが凍ってしまっている。
凍るような寒さとは対照的に、わたしは暖かい部屋の中にいた。
ベッドの上でわたしの膝にかかっているシーツは、雪と同じ白さで、わたしの足元を包んでくれている。
外では雪が、すべての音を吸いこんでいる。
わたしのいる部屋も、わずかな音だけで静まり返っている。
暖房がその暖かな存在を音でしるしている。
この静寂の中で、子供の息遣いが最も大きく聞こえてくる。
もう一度、空を見上げた。
時間が経つに連れて雪の粒が大きくなり、更にたくさん雪が降ってくる。
降り続く雪は、流れ落ちる滝のようになっていた。
そして一切の景色を隠してしまう。
しかし、光だけは雪の隙間を通り抜けて、わたしのもとに届いていた。
風が吹くたびに、雪に一瞬だけ隙間が出来る。
そのとき、太陽が見える。
もう一度外で風が強く吹き、窓ガラスが叩かれ激しい音を立てる。
腕の中の子は、また泣き出してしまった。
強く激しく泣く。
必死でわたしに、しがみついてくる。
その手は、わたしの腕を力強く捕らえて放さない。
小さな手は、何を求めて、何を掴もうとしているのだろう。
必死にしがみついてくる。
熱い体温、柔らかな肌、広いおでこ。
体全部で、必死に泣いているように見える。
わたしに伝えたいことがあるのだろう。
体のすべてを使って、必死になって訴えたいことがあるのだろう。
わたしは、その訴えに応えていかなければいけない。
それが、何よりも大切なこと。
わたしは、腕の中の子のおでこに手を当てる。
わたしは、おでこに当てていた手で、もう一度頭を撫でた。
そしてわたしの想いを伝えるためにその子の名前を呼ぶ。
「いい子ね。名雪…」
すべての話を終えると、リビングは静かになっていた。
わたしは一息付く。
話に夢中になって気が付かなかったけど、祐一さんが真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「そうですか…そんなことがあったんですか」
祐一さんは、しきりに感心している。
たまに独り言を呟いたり、あごに手を当ててうんうんと頷いたりしている。
「そうかあ、そんなことがあったのか」
ずいぶん感心してくれている。
「良かったです。祐一さんに話して」
「ありがとうございました」
お礼をされてしまった。
それにしても、喉が渇いてしまった。
「祐一さんもお茶を飲みますか」
「俺が煎れますよ」
「あら」
素早く、祐一さんがお茶を煎れてくれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
お茶がおいしい。
飲み物を飲んだら、気分が落ち着いてくる。
今、何時だろう?
リビングに入ってくる光で出来る影がずいぶん短くなっている。
とりあえず洗物でもかたずけようかしら。
そう思い、立ち上がろうとしたとき、
「おはよう」
ずいぶん遅い、おはよう。
「あれ、珍しいね。祐一とお母さん、何か話してたの?」
「おまえー」
祐一さんが、笑顔の名雪に近付いていく。
「ほーほー」
祐一さんはあごに手を当てて、名雪を足元から見上げていく。
「ふむふむ」
「なに? なに、なに?」
名雪と祐一さんが見つめ合う。
名雪が赤くなっている。
そして、祐一さんは、
「うにゅ」
名雪のほっぺたを引っ張った。
「ひたいよ、祐一」
ぐにぐに、引っ張っては、
「おー、名雪だ」
と繰り返している。
「凄いな、名雪」
「うぅー、ろうしたんらよー」
ほっぺたを引っ張ったまま会話をしている。
「うぅー、はなひてほしぃ」
「よし、放してやろう」
祐一さんは最後にぐうっと引っ張って、ほっぺたから手を放した。
「いったい、何がどうしたの?」
「何でもない、何でもない」
名雪は、不満そうな表情でわたしの方に顔を向ける。
その目は、わたしが祐一さんに何を話したのか、聞いている。
「ふふ」
「うー」
一人だけ除け者にされて、不満そうだ。
「名雪も起きてきたし、出掛けましょうか」
外に出ると天気は快晴だった。
空気が少し冷たく、気分を新しくしてくれる。
新鮮な気持ち良さが、見える景色を色鮮やかにしてくれる。
お日様の光が暖かい。
「おーい、急げ」
「ちょっと待って」
今日は、祐一さんが用意してくれた名雪の誕生日だ。
祐一さんが名雪に、春が近くなったら誕生会をやると、約束したらしい。
「おまたせ」
「よし」
「では、行きましょう」
名雪が来てわたしたちは歩き出す。
「プレゼントは何かなー」
「期待しても、大したもんはでないぞ」
でも、名雪は嬉しそうだ。
「あ…祐一、見て」
名雪が道路の脇を指差す。
「ふきのとうだよ」
雪の間から芽をだすふきのとうは、とても明るい鮮やかな緑色をしている。
祐一さんはふきのとうを眺めてから、突然大きな声をあげる。
「そうそう、春ってこんな感じだったよな」
祐一さんは名雪の肩を抱き、嬉しそうに笑っている。
「わっわっ」
暖かな春の陽射しの中を家族3人で歩く。
いつまでも続いている日常。
わたしは、振り返ってみる。
そこには、抜けるような青空を背景にした、
わたしたちの家が建っていた。
(『birth Kanon』 完)
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