あたしの名前を付ける時、父は非常に困ったらしい。
生まれつきのセンスの無さというか……とにかく何一つ名前が思い浮かばなかった。
母や祖父母に頼めば良いものを意地になって考え続けて。
そして名前を届け出る締切の数日前。
数ヶ月前にお歳暮として、近所の若い夫婦から送られてきたバニラの香水・芳香剤詰め合わせがあった。
その日たまたま使った芳香剤の香りを嗅ぎ取って、その香りに惹き込まれて、そして決めたらしい。
「よし、娘の名前は『かおり』にしよう!」
……記憶の限り、初めてあたしが栞の事以外で『悲しくて』泣いたのは、このいい加減な名前の由来を聞いた時だった。
そしてそれ以来、栞の事以外で『悲しくて』泣いた記憶は殆どない。
She was named for vanilla.
ピンポーン
水瀬家のチャイムに、指を伸ばして、離す。
少しして、ドタバタという音と共に扉が開く。
「あ、香里〜」
「ごめん、ちょっと遅れたわ」
約束の時間より10分ほど遅れたことを全く気にせず、親友の名雪はあたしを家へ誘い入れる。
まあ、普段の彼女の様子を考えれば当然とも言えるけれど。
いつものように階段を上がろうとする。
と、その時、あたしはかすかな、だけど良く知っている匂いを感じた。
「バニラ……」
意味も無く呟いてみる。
「ん? どうしたの、香里?」
「名雪、もしかして栞とか来てる?」
そう聞くと、ちょっとだけ、殆ど分からないくらいちょっとだけ、不機嫌そうな顔をして名雪は答えた。
「来てるよ? リビングで祐一と一緒に……」
一緒に、の続きは?
そう聞く事もせず、あたしは黙ってリビングに続く扉を開けた。
その先に待っていたのは、恋人同士の、バニラのような甘い香りのしそうな一時だった。
そして、二人のうちの一人、栞の横にはバニラアイスのカップ。
二人は目を閉じ、唇を重ね、服越しに体温を感じ合っている。
栞の唇から、相沢君にバニラの甘さが伝わっているのだろうから、文字通り甘いキス。
とりあえず、これ以上考えて、脳内描写が深くなるのを止めた。
そして、一呼吸。
あたしは叫んだ。
その内容はここでは言わない。
まあ、人に聞かれたらシスコンだの過保護だの言われるかもしれないことではある。
名前の由来を聞いた後、あたしは本当に泣きつつ廊下を歩いた。階段を上った。
その間、ああ、そう言えばよく家にバニラの香りがしてたなぁ、というような事を考えながら。
そして、たまたま栞の部屋の扉が微妙に開いていることに気付いた。
そして、そこからバニラの香りがしたことにも気付いた。
あたしはその扉を開けて、中に入った。
ああ、そう言えば今日のおやつはそうだったなぁ、というような事を考えながら。
「まったく、あなた達は……」
くどくどくどくど。
自分でもそう思うくらい説教してみる。
別に愛する男女の色恋沙汰が悪いとは思わない。思わない、のだが。
世の中にはTPOというものがある。……別にどれにも引っかかってないような、という意見は却下したい。
「香里、おばさんクサイよ……」
「何か言った?」
睨む。
「ううん、何も言ってないよ〜」
笑顔。そして汗。多分冷や汗。
「お、お姉ちゃん、反省してるから……で、結局どうすればいいの?」
「お、俺も悪かった。で、これからはどういう風に……」
「あのね、そこが分からないのが反省不足っていうのよっ」
正直な話、恋人同士が二人っきりでいていちゃついて何が悪い、と自分でも思う。止めたのは単にむかついたからだし。
だから二人にも何か考えてもらおう。3人寄れば文殊の知恵。何か違う。
「お姉ちゃん……」
栞が一言喋る、と同時に微かなバニラの香りがして。
そして、それがあたしの苛立ちを僅かに強めるのだ。
泣いている小さな子供に出来たことは──八つ当たり。
「栞、聞いてた?」
バニラの香りに文句を言いたくなり、あたしは栞の部屋に入った。
そこで、美味しそうにバニラアイスを食べている栞を目にして、小学校3年生のあたしはそれに水を差すのは不可能と判断。
それでも怒りの行き所が無いので愚痴を言う。
そして現在に至る。
「うん、聞いてたよ」
と、言いながらあくまで食べ続ける。幸せそうに。むしろ……さっきより?
それからだった、栞が前以上にバニラアイス好きになったのは。
理由は分かる。あたしは栞の事が好きだった。栞もあたしの事が好きだった。
単純に、あたしの名前の由来ということでより好きになった。その感情は良く分かる。
そんなの、正直喜べないわけだが。
別にこの名前が嫌いなわけじゃない。でも、その由来は嫌だった。そしてこの香りは……
あたし達の不毛なやり取りは、買い物に出ていたおばさま……秋子さんの帰宅で幕を閉じた。
「それじゃあ、俺達は部屋に上がるな。行くぞ、栞」
「はいっ」
そう言って、二人は階段を上っていった。
その後には、やっぱり微かなバニラの香りが残される。
「ふふ……賑やかでいいわね」
思わず頬の辺りが熱くなる。
冷静になると、さっきまでの会話のあまりの不毛さに、恥ずかしさを覚えずにいられない。
「あら?」
唐突に秋子さんが声をあげる。
「これってバニラの香りよね……あ、アイス?」
視線の先には、片付けて行くのを忘れてたのか、栞が食べたアイスの空があった。
「あ、はい。栞が好きなもので」
「ふーん……」
くすくす、と笑って、腰を落ちつける。
あたし達も名雪の部屋に行かないで、何となくそれに続いて座った。
「昔、ね。名雪のお父さん……あの人がね、このバニラの香り、好きだったのよ」
「そうなの? お母さん」
「ええ。ここに家を建てて住み始めた頃は、毎日のようにその匂いの香水をつけてたかしらね……」
昔を懐かしむ秋子さんのその表情は、美しかった。
だけど、何か引っかかった。その言葉が。
『近所の若い夫婦から送られてきた』
…………ああ、オチが、読めた。
「それで、その年にはお歳暮に送ったりね」
なるほど、結局あたしの名前の元になったのは、この人だったわけだ。
栞の名前を決める時、父はやはり非常に困ったらしい。
今度こそ、とリベンジを目論んでいたが……とにかく何一つ名前が思い浮かばなかった。
母や祖父母に頼めば良いものを相変わらず意地になって考え続けて。
そして名前を届け出る締切の数日前。
ふと、あたしの時の事を思い出して、藁をもすがる気持ちで、同じ家……水瀬さんから送られてきたお歳暮を探した。
あったのは、簡素な菓子折り。
今なら分かるが、当時夫が死に、娘を育てるのにも苦労していて、とても歳暮にこだわっている場合ではなかったのだろう。
だが、うちの父は侮れない。
あたしの名前が「かおり」で、届いたのが「かしおり」ならば、道は一つしかない、そう言い張った。
「よし、次女の名前は『しおり』にしよう!」
ちなみにこの事実を、栞は知らない。
「あの人が死んで以来、わたしはバニラの香りがする香水なんかも一度もつけてないのよ? ……思い出すもの」
秋子さんがそんな事を言った時、あたしは栞の名前の由来を思い出した。
「ふふ、本当懐かしいわね……」
そう言って、空カップを見る。
だけど、それは結局はごみに過ぎないわけで、匂いも食べ物を飾っていたに過ぎない。
「あの、おばさま」
「何? 香里ちゃん」
「もうバニラの香りのする香水は無いんですか?」
僅かに、ほんの僅かに、秋子さんの動きが止まった。
……失言だったかな、そう思った矢先に秋子さんは再び笑顔を見せた。
そして棚を空けて、その中から3つ、香水を取り出した。
「あの人の命日に……ね。毎年買ってるのよ」
「そうなんですか?」
「そうなの?」
「ちょっと、何で名雪が知らないのよ」
あれ? と悩み出す名雪を、あたしと秋子さんは二人して笑った。
「……酷いよ」
拗ねる名雪。それを見てまた笑う。
そしてひとしきり笑った後。
「それで香里ちゃん。もし良かったらだけど……この香水一ついる?」
「え、いいんですか?」
「ええ。ほら、名雪にも」
そう言って、それぞれに一つずつ渡してくれる。
「ありがとう、お母さん」
「ありがとうございます……あ」
その時、ふとある事を思い付いた。
「どうしたの?」
「あ、いえ、何でもありません」
少しの間二人に問い詰められていたが、大分時間が経っていたのか栞と相沢君が下りてきて、そっちに話題が移った。
全く、幸せそうな顔して、ラブラブに下りてきちゃって……。
結局、今日の本来の目的……名雪と勉強をする、というものは、全く実行されることがなかった。
家に着き、玄関の扉を開ける。
「ただいまー、お母さん、お父さん」
「お父さん、お母さん、ただいま」
栞と言葉の順番を変えて挨拶をしてみる。もちろん特に意味はない。
不思議そうな表情をする栞を横目に、リビングに入る。
「お帰りなさい、二人とも」
そう声をかけてくれるのはお母さんで、お父さんは新聞を読んでいる。クールに。
だからあたしは、秋子さんに貰った香水を机の上にトン、と置いた。
「……!」
明らかに動揺している。そこへもう一つ。
帰りがけに寄り道して買った菓子折りを机の上にトン、と置いた。
「……!!」
さらに動揺している。
さあ、どう出るお父さん? そう目で伝える。もちろん顔には笑顔。
「…………」
ふっ、と諦めたような顔。
あたしは満足して、香水を手にとって、リビングを出た。
廊下に立ち、しばらくそこで立ち止まる。
そして、香水を自分に振り掛ける。
別に、あたしはバニラが嫌いというわけではない。この甘い香りも決して嫌いではない。栞が好きなものを嫌うわけがない。
ただ……
「そ、そんなこと言う人嫌いですっ!」
あたしの気に入ってる名前が、そんな経過で付けられたというのが気に入らないだけだ。
叫びが聞こえて、あたしは笑顔であの子を迎える準備をする。
きっと、あの子は走って、もしくは俯いてやってくるだろうから。
そうしたら、「あたしの気持ち分かった?」って言ってやるのだ。
バニラのような、甘い香りのしそうな、そんな恋をしている、愛する妹へと。
戻る