「それじゃ皆、最後の夏休みを有意義に過ごすように」
そんなありきたりの一言で一学期最後のHRを締めくくられた。うちの担任は話が長く
ないのが救いだ。
「あー、春原。お前は後で職員室に顔を出せよ。補習の事で話がある」
「ええっ!? 何で僕だけ!?」
春原は驚いたように俺を見た。失敬な奴だ。
「岡崎は中間、期末ともに平均点以上、遅刻も減少し出席日数も問題なし。お前はその両
方とも赤点、遅刻、無断欠席に改善の余地なし。今後の事も含めて話し合うのは当然だ
ろう?」
担任は困った奴だと言いたげにそう言った。
「まあ、帰る間際でいいから顔を出すように。それじゃあな」
呆然と突っ立っている春原に死刑宣告だけを残して去る担任。皆が皆鞄を手に教室を去
る。殆どの奴らはもしかしたら塾などで顔を合わせるのかもしれないが、生憎、俺のよう
に進学を諦めた奴には関係のない話だ。つまり、夏休みが終わるまでここで会うことはな
いだろう。
「どういう事だよっ、岡崎! 何でお前だけ!」
目の前の男は、突きつけられた現実にまだ打ちひしがれていた。
「あのなあ春原。俺期末テストの一週間くらい前にちゃんと勉強してるって言ったぞ?」
「う、嘘っ!?」
その時の会話を思い出しているのだろう、春原は天井を仰ぐように上を見た。
『ようっ、岡崎。帰ろうぜ』
『悪い、春原。俺はしばらくお前とは帰れない』
『ん? 何か用事でもあるのか?』
『ああ…俺は…俺は運命に抗おうと思うんだ』
『う、運命?』
『俺たちも何時までも馬鹿をやってられない。だからそのための準備をしようと思うんだ』
『そ、そうか…なあ岡崎。僕にも手伝えることは無いのか? 僕達友達だろ?』
『いや、俺一人の手でやり遂げたいんだ。お前はお前で頑張れよ』
『お、岡崎…』
『じゃあな…お互い頑張ろうぜ』
「って全然勉強するなんて言ってないじゃん!!」
思い出したらしい、頭を抱えて絶叫する春原。
「いやちゃんと言ったと思うぞ運命に立ち向かうとか何とか」
「だからそれの何処が勉強なの!?」
「俺が補習を受けるって言う運命に立ち向かう。すなわち勉強」
「えらく都合のいい解釈ッスね!」
「まあお前はお前で頑張れよ」
「その負け犬を見るような目で言うの止めてくれますかっ!!」
「え、お前負け犬じゃん」
「ち、畜生ぉぉぉぉぉ!!」
泣きながら教室を飛び出していった。あいつちゃんと職員室に行くといいけど。でも、
次に春原をからかうのは休み明けか。ちょっと寂しい気もするな、暇があったら夜にでも
からかいに行ってやるか。
さて、俺もそろそろいつもの場所に行くとするか…すっかり馴染みになったあの場所へ。
始まりのSUMMER VACATION
旧校舎のとある空き教室。もはや暗黙の了解の内に溜まり場となった部屋がそこにある。
演劇部室。まあ生徒会も放任してたような教室だし、卒業まで俺たちで使わせてもらお
う。そう開き直ったのはいつだったか。
ドアを開ける前に中から数人の声がする。どうやらもたもたしている間に揃ったみたい
だな。
ガラガラ
「よう」
いつものようにぶっきらぼうに挨拶をしながら俺は教室に入った。
「朋也くん、こんにちはなの」
……。そう言って頭を下げたのはウサギだった。正確にはウサギのきぐるみを被った誰
か、だった。しかも中途半端なことに頭しか被っていない。つまりウサギの頭の下は制服
な訳で。
もしかすると俺はツッコミを求められているのだろうか。この不思議生物にお前誰やね
んと一言言ってやらなければならないのだろうか? そんなあまりにも過酷な試練を神は
俺に与えたもうたのか。
「オーマイゴッド」
とりあえず棒読みで俺は言ってみた。もちろん何が起こる訳もない。そもそも何でそん
な事を言ったのかすらわからない。
天井を仰ぐ俺を下から見上げるウサギ。ああ、何てシュールな。
「朋也くん?」
「ああ気にするな。ちょっと人生について考えただけだ」
お前のな。
「…老後のこと?」
「そんな先の事今から考えるかっ!」
見当違いの発言をするウサギの頭をもぎ取る。思ったより簡単に取れたその下からは、
予想通りことみの顔が出てきた。
「うさぎ〜」
とても名残惜しそうにうさぎの頭を見つめることみ。
「もううさぎはいいっつーの。ったくこんな物どこから…」
出したんだ、と言いかけて止めた。元々ガラクタが積んであった部屋だ、そこらのダン
ボールの中にでも入ってたんだろう。俺はうさぎの頭をボン、とダンボールの上に放る。
改めて部室を見ると他には誰もいなかった。おそらくまだHRの最中なのだろう。俺は
椅子を引っ張ってきて腰掛ける。
「にしても明日から夏休みか。一応高校生活最後なんだよなあ」
進学をとっくに諦めた俺からすれば人生最後の、か。去年は何をしたんだったか…、と
りたてて何もすることなくダラダラ過ごしてた気がするな。今考えると勿体無い事をした
もんだ。
ようやくウサギの未練から逃れたのか、ことみも俺の向かいに椅子を持ってきて座った。
「朋也くんはお休みはどうするの?」
「あー、俺の予定か? まだ考えてもいない」
そもそもついこの間までなら考えるまでもなく惰眠を貪ってだろうが…今は状況が違う。
ことみがいて、それと連れ合う友達がいる。それだけで、俺の予定は全然違う。
今しか出来ない事がある。それが単に友達と馬鹿をやるだけだとしても、基調だと思え
るようになる日が来るとは思わなかった。
「やっほーお二人さん早いわねー」
「あ…あの…こんにちは」
そんな事を考えていると藤林姉妹が入ってきた。相変わらずテンションが正反対の二人
だ。
「杏ちゃん、椋ちゃん、こんにちはなの」
ことみがわざわざ立ち上がって頭を下げる。ああ、こいつの純朴さというか素直さとい
うか。永遠になくならないで欲しいと思うのは俺のわがままか。
「こんにちは、ことみちゃん」
「ん、こんにちは」
二人も軽く挨拶を返す。もうすっかり日常と化した光景だ。
「で、朋也? 補習は何日あるの?」
「は?」
杏はニタニタと笑いながら言ってきた。こいつは何を言っているのか。いいだろう、ち
ょっと現実という物を見せてやるか。
「生憎とうちのクラスで補習をくらったのは春原だけだ」
「え…?」
心底驚いたようなリアクションを返す、杏。ちょっと傷つくぞ。
「ことみのマンツーマン指導のお陰でな。中間、期末共に乗り切り、後半の出席で俺は、
無罪放免というわけだ」
「……」
顎に手をやって何かを考える杏。
「本当に朋也?」
「お前つくづく失礼な奴な」
そう返してやると困ったように今度は苦笑いを浮かべていた。こいつ俺が補習を逃れら
れないと思い込んでいたな…。
「それじゃ、休みの計画を立てるのに支障はないわけね」
「んだよ、計画って」
ていうか今まさにそんな会話をことみとしていたのだが。
「決まってんでしょ。高校生活最後の夏休み、家に閉じこもってるなんて勿体無い事言わ
ないわよね?」
「そりゃそうだが…何か案があるのか?」
杏の計画だとろくでもないことがありそうだが…それでも一人で考えるよりかはマシだ
ろう。それにことみにしてみればおそらく友人同士で過ごす夏休みなんて初めてのはずだ。
二人きり、というのも悪くないがせっかくの休み。大勢で騒ぐのも悪くないだろうと俺
は思った。
「とりあえず部長を待ちましょ。話はそれからでもいいでしょ?」
そう言って杏は椅子を並べて座った。いつの間にかこうやって円陣を組むような集まり
になったんだよな。
程なくして部長こと古河が部室に現れたので、俺たちは杏の提案通り休みの計画につい
て話し合うことになったのだった。
「あたしとしては、海は外せないと思うのよね〜」
パラパラとレジャー雑誌をめくりながら杏は呟いた。テーブルを囲み、五人で一つの雑
誌を覗き込むような形で雑談を交わす。海か…海といえばやはり水着だな。水着の美少女
四人で海…。おお、何か甘露な響きだ。
「でも…お姉ちゃん、先月オープンした遊園地とかでも…いいと思う」
藤林がめくったページにはその遊園地の特集が組まれている。この場所だと列車で三十
分てところだな。へえ…結構でかい遊園地だな。いつの間にかこんなのが出来てたのか。
「あっ、ハイキングコースのある山もありますよ」
古河が目をとめたページには比較的なだらかなハイキングコースの説明が掲載されてい
た。ま、夏だからこそ山っていうのもありかもしれないな…。
ことみは皆が皆目をとめるページを見ては目をくるくるさせている。きっとそれぞれの
場所へ思いを馳せているのだろう。
海に山に遊園地か…。そういえばこんな風に何処かへ行こうか、と友達同士で話す時間
なんてなかったな。実現するかは別にして、あそこもいいな、ここもいいな、と話し合う
まったりとした時間。
俺はいつからこんな時間を持つ余裕すら失くしてしまったんだろう…。周りで笑いあう
奴らの声がとても懐かしく感じる。
「朋也くん?」
その声に俺ははっと我に返った。ことみが不思議そうに俺を見上げていて、見渡すと皆、
俺の方を向いていた。
「どうしたのよ、ぼーっとして。話聞いてなかったの?」
杏が俺の顔を見ながら訊ねてきた。
「あ、ああ、悪ぃ。ちょっとぼけっとしてた」
俺は頭を掻いてそう誤魔化した。
「えっと…とりあえず初日はどこに行こうか…という話だったんですけど」
藤林が微笑みながらそう言った。初日か…うーん、何処にだって行けるというのは結構
選ぶのが大変だな。とはいえ最近は暑いしな…。
「俺としては海かプールを選びたいところだな。最近暑いし」
「海か…まあ、そう遠出でもないし妥当なところね」
杏がうんうんと頷きながらそう言った。パラパラとまた雑誌のページをめくる。そのペ
ージにはこの辺りの海水浴場の紹介が載っていた。どこも列車を使っても片道一時間はか
かるようだな…。まあそのくらいの時間なら日帰りで高校生の俺たちでも出かけられるだ
ろう。
「丁度平日だし、それほど混まないわよ。ところでことみ? アンタ水着はあるの?」
杏がことみに訊ねた。ことみはしばらく考えていたが。
「えっと…もう着られるのはもってないの」
てことは泳ぐ事にはえらくご無沙汰だったってことなんだろうな。だがその答えに杏は
にまーとこれはこれは嬉しそうな顔をする。ああ、あの顔はことみにちょっかいをだして
いた時の顔だ。
「そう…それじゃ今日これから買いに行きましょうか。あたしも新しい水着が欲しいし」
「!?!」
ことみの顔に少し焦りというかおびえの表情が走った。ことみも杏の表情から何かを読
み取れるようになったらしい。
「えっと、杏ちゃん…」
「んー、なあにー?」
「…いじめる?」
それはそれは泣きそうな顔でそう言った。
「大丈夫よ痛くしないから」
水着を選ぶだけなのにどうしてそんな返答が出来るんだ、杏。
「さあて、せっかくだから椋も部長も来なさいよ。朋也、あんたは先に帰んなさい」
「ああ、今回はそうさせてもらう」
女が水着を選ぶ買い物に同伴なんて考えただけでも恐ろしい。ことみの反応が見られな
いのはちょっと残念だが、まあそれはそれとして。
「まあ楽しみにしてなさい。あたしがことみに似合う水着をちゃんとコーディネートして
おくから」
杏はそれはそれは楽しそうに笑っていらっしゃる。こいつ絶対ことみをおもちゃにする
気だな。
「古河、藤林。何かあったら二人で杏を止めてくれ」
俺は頼りない友人二人に声をかけてみた。
「…ぅ…ぇ…自信ありませんけど…」
「えっと、何があるのかわかりませんけど、わかりましたっ」
姉の威力がどれほどかを知るが故、はっきり返事の出来ない藤林に、事態を飲み込めて
いない古河。ああ、なんと頼りなき事か。
「……」
ことみはノリノリの杏を見てまだ不安の表情を隠せないようだ。だが許せ、今回ばかり
は俺も杏を止められない。俺はとりあえず杏が悪乗りしませんようにと祈りながら、商店
街の入り口で四人と別れた。
…楽しくなるといいなあ。
でもって夏休み初日。がら空きの列車に揺られて到着したのは、俺たちの街から少し離
れた海水浴場。見渡す限りそれほど人はなく、地元の連中が休みにかこつけて利用してい
るだけといった印象を受ける。
「それじゃ着替えてきましょ、あっちに更衣室があるから」
杏が率先して三人を引っ張っていく。こういうとなんだがイニシアチブを取るのが何て
似合う奴なんだろう。ちなみに俺は下に海パンを履いているので更衣室に寄る時間など、
数えるほどだ。
「朋也、覗くんじゃないわよ〜」
「誰が覗くかっ! とっとと着替えて来い!」
お決まりのやり取りを杏とやらかして俺は男子更衣室に入る。ロッカーに荷物を詰め、
手早く服を脱ぎ、薄手のパーカーを羽織る。…準備完了。
「どうせ待たされるだろうからさっさと行くか…」
俺はそうぼやきながら更衣室を出て浜辺へと歩いていく。少し空を見上げると雲一つな
い快晴。照りつける太陽はこれでもか! と夏を演出していた。
とりあえず用意されているパラソルの下に避難する。浜辺でぼーっと突っ立ってる男っ
てのは絵にならない。ここらで待っていればその内あいつらも来るだろう…。
ぼー………。
「……………」
暇だ。正直これほど時間がかかるとは…とはいっても時計もないこの状況じゃ案外時間
はそう経ってないのかもしれないが。
「お待たせ〜」
後ろから妙にはしゃいでいる声がした。杏だな。
「ああ、結構待ったぞ……」
その後にも台詞が続くはずだったんだが正直、声が出なかった。セパレートの水着がよ
く映える杏。健康的な脚線美が素晴らしい。その後ろに控える藤林、シンプルなワンピー
スの水着だが、出るとこ出てて申し分ない。古河も少し地味な印象があったんだが、青い
ワンピースの水着が意外な可愛さをかもしだしていた。そして何より、同じワンピースで
もアクセントにフリルのついた可愛い系の水着に身をつつんだことみに脱帽だ。
思わず返す言葉も忘れて俺は突っ立っていた。
「何をぼーっとしてんのよ、朋也」
「いや、ぼーっと何かしてないぞ」
見とれてただけだ。杏のツッコミに心の中でそう返す。とはいいつつも視線はことみに
釘付けだった。制服の上からではわからないことみのスタイルが露になっているのだから。
ことみは恥ずかしいのか俺と視線を合わせないように右に左にと落ち着きがない。
そういえば前に杏がことみの胸の大きさにこんなにあるのとか驚いてたな…。……大き
い、確かに。それでいて照れたような困った表情でモジモジとしているのだから余計に扇
情的だ。
「ほら、ことみ。一番聞かないといけない事あるでしょぉ?」
「………」
ずずずと背中を押されて前に出てくることみ。顔は真っ赤で今にもはじけ飛びそうな雰
囲気だ。
「…あのね、朋也くん」
「お、おう何だ?」
おずおずと前に出て俺を見上げながらことみは、
「えっと…水着、変じゃない?」
「あ、ああ、よく似合ってるぞ、可愛い」
最後の可愛いがことみに火をつけたのか。まるで茹でられたかのように真っ赤に顔を染
めて、
「…とってもとってもうれしいの」
そう言って走り出して海に向かっていった。多分、それ以上耐えられなかったんだろう。
正直、それは俺も一緒だったので。ていうか後ろからにやにやと見つめる杏や、微笑まし
い笑顔を浮かべる藤林や古河の視線に耐えられなくて、
「っと、おーいことみっ」
と、ことみを追いかける振りをして俺も海へと向かっていった。
「おらっ! くらいやがれ杏!」
その後海から上がった俺たちはビーチバレーを始めていた。落とした方が帰りのジュー
スをおごるという過酷なデスマッチだ。五人いるので、同じ人物が連続でボールをタッチ
しない、というルールで円陣を組んで遊んでいた。
が、俺が杏を狙うとき、また逆の時は何故か本場のバレーさながらの熱いラリーを繰り
広げる事になった。
「ふふーん、あんたも甘いわよねー」
古河が上げたヘナヘナトスを俺は杏目掛けてスパイクしたのだが、奴はあっさりと流し
て藤林の方に放った。
「えっと…ことみちゃん」
ポンと両手で弾くように、ビーチボールはことみの方へと飛んでいく。
「渚ちゃんになの」
それをポワンとまたしてもヘナヘナと弾くことみ。ボールは放物線を描いて古河の方へ
向かっていく。
「それじゃ、岡崎さんに」
そう言ってボールへ向けて両手を伸ばす古河。
すかっ…ぽすっ。
だがその両手がボールを弾くことなく、砂の大地に落ちたビーチボール。それを無言で
見つめる古河に俺は一言言ってやらねばならない。
「お前、すっげぇ運動音痴な」
「…すみません、落としてしまいました」
いや、悪くはないんだけどな。残念そうに下を向く古河を見てると少し可笑しかった。
「これで部長が三回か…。朋也と並んだわね」
「あれ? 杏ちゃんも三回落としてるの」
お前もな、と突っ込もうとした俺より先にことみが答えた。
「ま、まだ時間はあるものね。さあ、次、次行くわよ! ほら部長、ボール拾って!」
思わぬ方向からのツッコミに杏が動揺していた。ううむ、中々面白かったぞことみ。
夕陽に照らされて海が青からオレンジへと変わっていく。とっくに着替えた俺は、少し
浜辺から高い歩道に備えられたベンチからそれを見ていた。日が沈み始めると、昼間のよ
うな暑さもなく、潮風が涼しかった。
「朋也くん」
「おう、ことみ早いな」
もう着替え終わったことみが俺の横に並んだ。
「他の奴らは?」
「まだ髪を乾かしてるの。私は杏ちゃんにやってもらったから」
あいつ、本当に世話焼きだな。そうして今頃自分の長い髪を乾かしてるわけか。
「楽しかったな」
「うん、とってもとっても楽しかったの」
そう言ってことみも俺の横に並んで海を見つめる。それはまだまだ遊び足りない子ども
の様な顔で。
「今度は何処へ行こうか」
「え?」
「今日は楽しかった、けどまだ休みは長いからな。次の計画を立てないとな」
ことみはずっと知らなかった。あいつの世界はいつだって本に囲まれていた世界だった
から。友達と出かけて遊ぶなんて、ことみはずっと知らなかった。こうして初めて味わっ
た楽しさが終わってしまうのが少し寂しそうだった。
だから、俺はそう言った。終わったのなら今度はどうしようか、と。友達がいれば、そ
んな日はいつだってあるんだ、と。
「……」
少しまぶしそうな微笑を浮かべてことみは俺を見ていた。俺の言いたい事が伝わったん
だろうかだったら嬉しいが。
けど、それは俺の勘違いだった。微笑むように目を細めていたことみはやがて、突っ伏
したように俺に寄りかかり目をつぶった。静かな寝息が肩越しに感じられる。
「……こいつは…」
全国でも十本の指に入るほどの秀才はとんでもなく子どもだった。だからこそ純粋で、
閉ざされた世界で子どものまま賢くなってしまった少女の寝顔を見ながら俺は思った。
ことみは…これからゆっくり取り戻していけばいいんだと。本は知識を与えるだけだ。
人と人のぬくもりも、友達同士で味わう楽しさも、そんなものは教えてはくれない。
それを知らずに過ごしてしまったことみに、俺たちが少しずつ教えてやれたら、それは
どんなに楽しい日々になるんだろうか。
俺は肩に寄りかかることみの頭を撫でた。心なしかことみが微笑んだような気がする。
「岡崎さん、お待たせしました」
手を振りながら駆け寄ってくる古河。それの後ろには藤林姉妹もいる。俺は隣のことみ
を見た。どう考えても起きそうにないな。
「悪い、古河。ことみの荷物持ってやってくれ」
「はい? ああ、ことみちゃん寝ちゃったんですね」
すーすーと寝息を立てることみをみて古河は微笑んだ。
「全くお子様みたいな奴だよ。しょうがないから俺が運ぶ」
ぶつくさ言ったのは照れ隠しのつもりだった。起こさないようにそっとことみを背負う。
すると、杏が何か言いたそうにこっちを見ていた。
「なんだよ」
「別に〜? なんでもないわよ〜?」
からかうようにそう言う杏を無視して俺は歩き出した。待ちなさいよ〜、と言いながら
後を追ってくる皆。背中には遊びつかれたお姫様。
俺にもこんな日々が訪れるとは思わなかった。何もかも投げ出して、自暴自棄にもなれ
ずただ惰性で生きてきた日々。
ことみに出会ってから俺も変わったと思う。自分でもわかるくらいにはっきりと。それ
は決して悪い感情ではなかった。
俺はいくつも並ぶ影を見ながら、そんな事を考えていた。
「ことみ」
「…ん」
結局ことみは家に着くまで寝こけていた。家の方向が違うので俺はことみと自分の荷物
を持ちながら何とか、ことみの家までたどり着いた。海で遊んだ後なのに、これはかなり
きつかった。
「起きたか?」
「朋也くん…」
まだ完全には起きてないらしいが、とりあえずことみを下ろしてやる。きょろきょろと
辺りを見回してようやく自分の置かれた状況に気づいたらしい。
「朋也くん、おはようなの」
全然理解していなかった。
「おはようはいい。お前今自分が何処にいるかわかってるか?」
「…? 私のおうち」
「うん、そうだな。それで今日は何処に行ってたんだっけ?」
「海。朋也くんと杏ちゃんと椋ちゃんと渚ちゃんと海に行ったの」
「それで? じゃあどうしてお前はここにいる?」
「あ…」
それでようやく気がついたらしい。
「朋也くん、私を運んでくれてたの?」
「ああ、お前が起こしても起きないからな」
起こそうとはしてなかったが、一応そう言っておく。
「……そうなんだ。朋也くん、ありがとうなの」
「ああ、礼はいいよ。それじゃ俺も帰るよ」
俺はことみに荷物を渡して帰ろうときびすを返す。するとことみは、
「あ、朋也くん」
「うん?」
だが呼び止めたにも関わらずことみは次の言葉を言おうとしない。いつもの挨拶なのだ
ろうか。ああ、そうか。いつもの挨拶は今の状況には合わないのか。長期の休みだ。それ
でことみは次の言葉を失ったのか。
「なあ、ことみ」
「えっ、なあに?」
だから俺は助け舟を出す事にした。休みはこれから始まるんだ、お前は…一人きりの休
みを過ごす事なんかない。自信を持ってその言葉を告げていいんだ。そう思わせるために、
俺は。
「少ないけどさ、課題あるだろ。明日からお前の家で一緒にやっていいか?」
「あ……」
その言葉の意味を理解した時、俺の一番好きなことみの笑顔が浮かんだ。
「うん、一緒に課題をやるの」
「ああ、だからいつもの挨拶をしようぜ」
お前と俺を繋いでいた最初の挨拶だから。だから自信を持って言って欲しかった。俺だ
けじゃない、他の奴らだって明日が無理でも明後日が無理でも、その言葉を聞けば、必ず
ことみに会いにきてくれるはずだから。
「朋也くん、また明日」
「ああ、また明日」
もう俺は、来れないなんて言わないから。皆、いつかは必ずお前のところに来てくれる
から。だからそう思えるように、過ごそう。お前の初めての夏休みを。
FIN
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