―――八日前、路地裏。
「娘。何故喰らわなかった」
「いや…だ。だって、人間なんだよ、生きてるんだよ」
「汝は既に人間にあらず。喰らわねば死ぬのは娘、お前の方だ」
「それでも嫌! だったらわたしが死んだ方がいい」
「理解出来ぬ。それだけの素質を持ちながら何故脆弱な人間に拘る? 汝が望めば二十七祖に等しき力を有するは難きことではない」
「おじさんが何言ってるのか全然分からないよ。わたしは、わたしは人間のままで、わたしのままでいたい」
少女――弓塚さつきの気持ち、それは男――ネロ・カオスには全く理解できなかった。
彼はこれほどまでに強固に吸血行動を拒む死徒を見たことがない。
手を伸ばせばいくらでも人間(エモノ)は転がっている。
だが、それにも関わらずさつきは頑なにそれを拒むのだ。
無論、出来たてで心が人間に支配されている死徒が、人間の名残として残ったわずかばかりの良心に阻害されて血を吸えないというのはネロも知るところである。
しかし、そのような良心など、吸血衝動のもたらす渇きの前には蚊ほどのものだ。
すぐに血をすすり、その潤いと自らが超越種である悦びを知ることになる。
だが……目の前の少女の思考は、そのようなちっぽけな良心ごときでは到底説明がつかなかった。
何より、吸血衝動を満たせぬ苦痛は人間が空腹で感じるそれの比ではないのだ。
それでも彼女がそれを拒む理由がネロには分からないのも無理はない。
彼が生まれたのは遠い昔、まだ人の死などありふれている時代だった。
だが、しかし、さつきの生まれた現代では『死』は極めて異常状態なのだ。
ましてや『殺す』などというのはその最たるものとして認識されていた。
そして、それにもまして、さつきは心優しい少女だった。
吸血鬼などという存在に耐えられるわけがない。
「ねえ、おじさん。きっと、おじさんには分からないと思うけど……」
ずるっ、とさつきの体がずり落ちる。既に、彼女の体は限界だったのだ。
目を閉じ、子供が寝言を言うようにさつきは言葉を続ける。
「どうして人を殺しちゃいけないんだと思う?」
ネロは何も答えない。いや、答えようがないと言うべきだろうか。
彼にとって、人を殺してはならないという前提が既に無意味だ。
「わたしもね……悪い人なら殺しちゃっていいじゃないって思ってた。だけど……おっきな人から言われたんだ……」
――人を殺したら、悲しむ人がいるからよ
「…ってね。わたし、それ実感だったんだ。どんな人にも悲しむ人がいて、だから人間は殺しちゃダメなんだって……なんて、おじさんには分からないよね」
だっておじさんは化物だもんね、そう笑ってさつきは倒れた。
ネロはやはり何も言わない。
だが、今度は理解出来なかったのではない。
さつきの言葉には理屈が通っていたからである。
しかし、彼は吸血種。人間を超越した者である。そして彼女もまた。
その超越者が何故人間の理屈に付き合うのか、愚かとしか言いようがない。
だが、ネロはいたくこの少女に興味を持った。
もちろん、その下らない理屈にではない。
彼女の死徒としての素質、吸血衝動に抗い切り死を選ぶ並外れた精神力、それらに興味を持ったのだ。
「娘、名は何という」
「…さつき……ゆみづか、さつき」
そうか、とネロはさもおかしそうに笑った。
自分の思い付いたゲームのスリルを想像して。
「ユミヅカ サツキ。汝に第十位、混沌を譲る。我を只一つの因子と成し、我の深淵を引き連れ極みに至れ」
「今より我の全ては汝のモノだ」
最果てより世界におくる、この物語を
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どすん、とやや間抜けな音を立てて何かが落ちる。
「っ痛! 冗談じゃないぞ秋葉の奴」
ぶつぶつ文句を言いながら体を起こすのは遠野志貴だった。
どうやら屋敷の塀から飛び降りたらしい。
件の一件でアルクェイドのマンションに仕方なく居候することになった志貴だが、あれから八日が経過しても目立った敵の動きがないために、昼の間だけという条件で本来の住処である屋敷に帰還したのだった。
もちろん、志貴は事情を説明してまたアルクェイドの下に戻るつもりだったが、彼の妹であり遠野家当主である遠野秋葉はそう甘くなかった。
無断外泊の説教に始まり、屋敷に軟禁すると言い始めたのである。
昼間も言うまでもなく、夜間外出など言語道断。
妹の怒る理由も性分も承知している志貴だったが(そもそも彼も彼で誤魔化しの説明しかしなかったのだが)、さすがにこれはまずかった。
屋敷にいれば時間が経過する。時間が経過すればどうなるか?
夜が来る。恐るべき吸血鬼達の時間がやってくるのだ。
そして、志貴はその最も危険な者に狙われている。
志貴はあのホテルの一件以来、夜中には建物の中にいないことにしていた。
そこに住む人を巻き込まないためというのもあるが、あの悪夢のような光景を思い出し、夜中に建物の中にいるということ自体に耐えられなかったからだ。
(帰ったらアルクェイドにもどやされるんだろうなあ)
辛うじて屋敷から脱出したのはいいものの、既に日は落ちている。
昼間の間だけという約束で単独行動を許可してもらっただけに、今は守護者となってくれている人物の怒りも買うかと思うと志貴は溜息をつくしかなかった。
命の危険よりも、女性に叱られる方が憂鬱とは彼も不思議な男である。
だが、今夜ばかりは命の危険を心配した方がよかったようだ。
吸血鬼騒動で人通りの少なくなった夜道。
その外灯の下に、一つの影が彼を待ち構えていた。
悪夢の再開を告げる、忌むべき訪問者が――
「こんばんわ、遠野くん」
ソレは好意的な笑顔を浮かべて志貴に歩み寄ってきた。
「…ゆみづか、さん?」
「良い夜だね。偶然会えたとしても嬉しいよ」
何故だ、何故彼女がここにいる?
初めて帰り道を一緒して、『またね』と別れたのが志貴が彼女を見た最後だった。
それから突然行方不明となった弓塚さつきが何故このタイミングで自分の前に現れる?
おかしい、おかしすぎる、絶対に何かおかしい。
――ズキン
志貴の頭に鈍い痛みが走った。
――ズキン、ズキン
さつきが一歩踏み出すたびに
――ズキン、ズキン、ズキンッ
志貴の頭痛は激しくなっていく。
「だ…れだ、お前」
左手を突き出し、右手は七夜と刻まれたナイフを抜く。
志貴は全身で接近するソレに制止を呼びかけた。
「あれ、分かっちゃうんだ。凄いね」
対するさつきは感心してみせるだけで、歩みを止めない。
何者も恐れぬ悠然とした態度。それは志貴の危険本能を一瞬にして頂点へと引き上げた。
「来る……な!?」
「危ないなあ。こんなの人に向けて振り回しちゃ駄目だよ」
「ぐ、あ……」
志貴がナイフを振るよりも早く、さつきの手がその腕を捕えていた。
その反応速度、腕を締め上げる力は女の子のものでも、ましてや人間のものでもない。
「それに、遠野くんのこれは特別だもんね」
「ぐ、このっ!」
「きゃっ、怖い」
ナイフを持たない左手で志貴が振るった拳は難なく避けられ、右手同様さつきに捕獲される。
志貴の行動は完全に封じられてしまった。
さつきは知っていたのだ。かつて、閉じ込められた倉庫から志貴に助け出された時に。
彼が刃物を持って裂けぬものはないということを。
いや、彼女にもたらされた新たな知識がその力を看破した。
「お前は、一体……」
腕を捻られる苦痛に顔を歪めながら志貴は尋ねる。
弓塚さつきであるはずがない。これが『弓塚さつき』であるはずがない。
記憶の中にある彼女の姿と目の前のソレは明らかに別物だった。
まるで何かが彼女の中に入り込んだような……そんな感覚を志貴は覚えた。
そして、それは現実の知覚へと変わる。
「久しいな少年」
さつきの腹部より、なにか黒いものが染み出したかと思うと、顔が浮かび上がった。
それはまさしくあの恐怖すべき吸血鬼の顔だった。
「ネロ・カオス!?」
「如何にも。多少記憶力には見所があるようだ」
「何故、お前がそこにいる。弓塚に何をした?」
「知れたこと。我はこの娘と同化した。否、既に我はこの娘の一部だ」
ナニヲイッテルンダ、コイツハ?
頭痛と腕を捻られる痛みの中、志貴は呆然としてナイフを落とした。
クラスメートだった少女は人間でなくなっていて、その体には恐るべき敵が住みついていて……。
「そうそう。あのね遠野くん、今日は大事な話があって来たんだ…」
志貴の事情と関係なく、さつきは語り始める。
志貴が聞いているか聞いていないかなど関係ないかのように。
「あのね、わたしずっと遠野くんのこと…」
志貴には何がどうなっているのか全く分からない。
滅茶苦茶だ。何もかも。
彼女が何なのか、奴は何故そこにいるのか、さつきが何故この状況でそんなことを口にしているのか……痛みの中、志貴の頭に一つの言葉が浮かんだ。
カオス――混沌――と。
「……ぐっ!」
突如、さつきが志貴の腕を解放し、自身の胸を押さえてうずくまる。
志貴はその隙をついてさつきから何とか逃れた。が、ナイフまで拾う余裕はない。
異変をきたしたさつきの姿を、ただ距離を置いて見守ることしか出来なかった。
「今度は一体何なんだ?」
「吸血衝動だ」
志貴の呟きに答えたのは、さつきの腹部に浮かび上がったネロ。
それだけ告げるとソレはすうっと吸い込まれるようにさつきの体へと消えていった。
もう貴様と話すことは何もないと言うかのように。
「ぐぐっ……」
「娘、本能に逆らうな。我等はその衝動無しでは生きられん」
「嫌だっ、何で遠野くんの血を吸わなきゃならないの!」
「諦めろ。直に慣れる」
一人の体から聞こえる二つの声。
そのあまりの異様さに志貴は声を出すことも、逃げることも出来なかった。
さつきの体の震えに呼応して空気も震え、あたりの草木も激しい音を立てる。
まるで、全世界がさつきに怯えているかのような鳴動が頂点に達した瞬間、さつきの叫び声が闇を突き抜けた。
「嫌だあああああああああああぁぁーーーーーーーーーっ!!」
「志貴、何があったの!?」
「あ、アルクェイド……悪い、夜までに戻れなくて」
「馬鹿っ、そんなことはどうだっていいわよ」
命の危険にさらされていたというのに、門限を破ったことをまず謝る志貴にアルクェイドは呆れ顔で溜息をついた。
尻餅をついていた志貴を引っ張り上げ、転がっていたナイフを拾い上げるアルクェイド。
それはここで、つい先ほどまで戦闘行為が行われていたことを意味していた。
その相手の姿は既にない。
遠くからも一瞬にして位置が分かるほどの殺気を放っていた何かはアルクェイドがこの場に到達するわずかばかりの間に気配を消し、姿をくらませたということになる。
「ネロ・カオスに会った」
「そう、やっぱりあいつなのね」
「え、分かるのか?」
「空気が震えるほどの殺気を撒き散らすなんてあいつくらいしか考えられないわ」
腕を組み、険しい表情であたりを探るアルクェイドだが、敵の気配は読み取れない。
既に志貴に一度殺された傷もほぼ癒え、本調子に戻った彼女としては見つけ出してでも始末しておきたい相手だった。
「それにしても何考えてるのかしら。わざわざ自分の居場所を誇示するなんて、まるで素人……あいつらしくもない」
「それなんだけどさ、アルクェイド……」
――あれ、ネロだったけどネロじゃなかったんだ。
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