最果てより世界におくる、この物語を

Page 6 「黒の夢の終わりに」







「いつまでも調子に乗ってるんじゃないわよ!」
 アルクェイドの爪が恐ろしい勢いでサツキを引き裂いた。
 その一撃は戦車ですら一瞬にしてスクラップにするかもしれない。
 しかし、サツキの体は裂けていない。
 すっ、と音も無くアルクェイドの隣へと移動していた。
「残像、そんなもの」
 返す腕が、すぐさまサツキを襲う。
 しかし、それも外れた。

「そこっ」

 次の出現地点を読んだシエルが、完全なタイミングで第七聖典をサツキの体に撃ち込む。
 今度こそ、捉えた。シエルはそう思った。
 即死といかないまでも、サツキに取り込まれたロアの力は完全に抹消されるだろう。
 対吸血鬼としての攻撃力も馬鹿にならない。
 だが……。
「なっ!?」
 引き金を引こうとしたシエルは違和感に気付く。
 相手に突き刺さっているはずの、その鉄塊の感触がない。
 つまり、捉えたはずの敵の実体が無い。
 慌てて攻撃を中断すると、目の前に捉えたはずのサツキの姿は自分とアルクェイドから離れた位置に再出現していた。

「あっはっは、危ない危ない」

 こっちだ、とばかりに手を叩いて挑発するサツキ。
 この場に及んでも余裕を見せつけるサツキの態度に二人はカチンときた。
「ふん、スピードに自信があるみたいね」
「あるいは、幻術の類ですか。いつまでも逃げられると思わないことです」



――違う。
――ソイツは早いとか幻とか、そんなのチンケなものじゃない。
――それとはもっと別の何か……。



「逃げる? 面白いことを言うね」
 二人の攻撃をかわしながら、サツキはせせら笑う。
 まだ気付いてないのねお馬鹿さん達、と言わんばかりに。
「もう相手を捕まえてるのに、何で逃げなきゃいけないの? ふふふ」
 二人の攻撃はことごとくかわされる。
 いや、二人もそろそろ異変に気付き始めていた。
 サツキが、かわして『みせる』ことすらしなくなったからだ。
「おいで。悔いのないように全力でね」
 両手を広げ、完全無抵抗のポージングをとるサツキ。
 そこに、二人の渾身の攻撃が突き刺さった。

 感触は確かにある。
 だが、手ごたえというものがまるで感じられない。
 殺っているはずなのに、殺れていない。
 高速移動による残像でも、光学的な幻術でも説明がつかないこの現象。

「凄い力だね。だけど、ただ強いだけじゃムリだってことに気付いた?」
 クスクスと二人の努力をサツキが嘲笑う。
 彼女はこの攻防で完全に確信した。
 自分を傷つけられるものはこの世に存在しないということを。



――誰もソイツを殺すことはできない。
――ソイツは不死身ではないが、真の意味で『無敵』なのだ。
――無敵である以上、死を視ることはできない。
――だから『殺せ』ない。



「あんたごときに使うまでもないけど、いい加減アタマ来たわ。死になさい!」
 ひとまず距離を置いたアルクェイドが、サツキに向かって手をかざした。

 高位のチャンネルを開き、自然と同調する。
 見、聞き、息するように、世界を意のままに操る。
 MarbleFantasmは世界を歪める。

 それこそ、真祖たる彼女にしか出来ない空想具現化の力。
 だが……。
 空間が歪み、それがサツキを飲み込もうとしたその刹那、歪みは補整され元の空間に戻ってしまった。
「う…そ……」
「人の世界と同化しようなんて趣味が悪いんじゃない、お姫様。不正アクセスって立派な犯罪だよ」
 クスッと微笑んだサツキが、愕然とするアルクェイドにウインクを送る。
 完全に馬鹿にしていた。
 初めからこうなることも分かっていたと言わんばかりに。

「さてと、まずは準備運動かな」

 サツキの腕が夜の闇へと溶け込んでいく。
 そして次の瞬間、虚空より現れた無数の爪がアルクェイドとシエルを襲った。

「うっ」
「きゃあっ」

 体を血に染め、二人の体が地面に転がる。
 いや、上方から降り注ぐ爪を逃れるために自ら転がったと言うべきか。
 だが、それでも二人の腕や肩にはハッキリと凶悪な爪の跡が刻まれていた。

「このっ!」
「やってくれましたね!」

 血を見て逆上した二人が、爪を、剣をサツキに飛ばす。
 だが、いずれもサツキを捉えることは出来ない。

      お 馬 鹿 さ ん 

 サツキがそう呟いたと思うと、今度は幾本もの黒い刃が空間より生じ、二人の体を貫き弾き飛ばした。
 真祖が、代行者が、共闘しえないはずの二人が全力をもって共闘しているにも関わらず、まるで子供扱いである。
 志貴に至っては、割り込むことすらできない。
 血みどろになって立ち上がる二人に、追い討ちをかけるかのような高笑いが響いた。
「ククッ…ハハハハハハハハッッ!」
 それはサツキの内なるネロの歓喜の笑いだった。

「愚かなり真祖! 愚かなり代行者! まだ気付かぬのか」
「ネロ・カオス、何がおかしいのよ」
「汝らが眼前の娘は水面に映る影。それを破壊しようとは笑止千万。とんだ茶番だ」
「水面に映る……影ですって?」
 ネロの言葉を反復したシエルははっとする。同時にアルクェイドも。
 先から二人の攻撃が全く通じないそのわけ、最初から相手がそこにいないのであれば全て説明がつく。
 いや、いるのは確かなのだ。
 だが、それが蜃気楼のような虚像であったとしたら?
 全ての疑問がその瞬間に氷解した。
「まさか……虚構空間を固有結界で作り出したと言うの?」
「いかにも。ヒトと死徒と、娘の心に宿る二面。汝らがいるのはその後者だ。娘の本体であるヒトは現実空間にある」
「そんな、そんなことが……」
「代行者よ、その問いかけは無意味と知れ。虚構はこうして目の前にある。それが事実だ」
 カラン、とシエルの手に握り締められていた剣が落ちる。
 勝つ手段がまるでないことを悟ってしまったからだ。
 いかな強力な武器でも、相手がそこに存在しないのでは話にならない。
 だが、アルクェイドは違った。
 戦意を挫かれたシエルとは逆に、不敵な笑みを浮かべて手を頭上に掲げる。
「ふん、馬鹿ね。わざわざ仕掛けを教えてくれるなんて。そうと分かればその空間を破壊するだけよ」
 サツキの空間の外にある、サツキに支配されない自然に呼びかけるアルクェイド。
 外から虚構空間を破壊しようという試みだ。
 だが、今度こそその働きかけは何の意味も持たなかった。
 何故なら、外からいかに働きかけようとも、サツキの虚構世界は絶対領域として存在しているのだから。
 サツキの世界には何の異変も起こらない。
 それを、じっくり観察してからサツキはクスと笑った。

「具現化対決? いいよ、次はわたしの番ね」

 サツキが手をかざすやいなや、再び現れた黒い刃がアルクェイドを貫いた。
 慈悲などという言葉が見当たらないほどの膨大な量の刃が。
「たわけ。混沌で練り上げられたこの世界を自由に出来るのは、その主である娘だけだ。ここでは貴様の力など蚊ほどにも役に立たぬ」
 苦痛と共に、アルクェイドは理解した。
 サツキの操るこの力は、他ならぬ自分と同じ力であるということを。
 そして、この虚構空間においては、全てを統べるのはサツキのみなのだ。

「脆弱な者共よ跪け。この娘は何人たりとも侵すことが敵わぬ者、すなわち神だ」

 勝利宣言とも取れる、ネロの高笑いを受けて、アルクェイドはぐらりと地面に崩れ落ちた。
 勝てる訳がない、それを彼女は本能的に悟ってしまった。
 自分の持つどのような力をもってしたところで、サツキには勝つことができない。
 彼女の空間に足を踏み入れた時点で、いや、彼女の領域に飲み込まれた時点で勝負は決まっていたのだ。
 自分は、腹の中で消化されるのを待つ小虫に過ぎない。

「心を殺されたか。真祖の姫君も存外にあっけないものだったな」
「仕方ないよ。これだけ差を見せつけられちゃったら、諦めるしかないんじゃない」
「それも道理か」

 アルクェイドは今まで常に強者であった。
 自分が窮地に追い込まれることなど考えたこともない。
 志貴に解体された時でさえ、まだ余裕があった。
 いや、あるいは、あの時ネロと戦っていれば彼女も窮地というものを実感していたかもしれない。
 だが、その経験のない彼女には、現在の絶望的な窮地に耐えうる術がなかった。
 ゆえに、心の壁は容易に砕け、そして心は折れた。
 だが、世の中にはそうでない者もいる。
 いつだってその者の戦いは絶望的だった。
 だが、それでもそれは戦い続けた。
 その者の名は……。

 ――ジャリ

 地に落とした剣を、再び握りなおし、シエルが立ち上がる。
 その眼光は死んでいない。
 彼女はまだ戦う気だった。
 それは戦意喪失したライバルに対する意地だろうか?

「あれ? センパイまだやるの? 一応人間だから生かしてあげるつもりだったけど、歯向かうっていうなら分かるまで、その不死身の体に教え込んであげるよ」
「……シエル、どうして」

 おどけたように驚いてみせるサツキと、信じられないといった表情のアルクェイド。
 それがシエルの心に火をつけた。
 そして、はっきりと自覚した。
 自分が何者であるかということを。

「そこで腑抜けてなさいアルクェイド。私は人間です。そして、人間は諦めない!」

 絶望を見ても諦めない心を持つ者。
 その者の名は――人間。


 シエルが雄叫びを上げてサツキに突撃する。
 もう戦法も何もない。
 何も考えず真正面から、ただのやけっぱちだ。

 手にした剣で突く、突く、払う。
 当たってようが当たってまいが関係無しだ。
 はじめはさせるがままにしていたサツキだったが、目の前で無駄な行動を繰り返すソレが次第におぞましく思えてきた。

「うっとうしいなぁ」

 無造作に爪で払う。混沌具現化など大袈裟なものではなく、ただ無造作に。
 その攻撃はあっさりシエルを直撃し、彼女を吹っ飛ばす。
 しかし、彼女はすぐさま立ち上がる。
 骨や内臓も滅茶苦茶かもしれない。
 サツキは信じられないといった面持ちで彼女の様子を眺めていた。
「いったい、何がしたいの? 恐怖で気が狂った?」
「私は……不死身……。貴女の攻撃を全て受けきれば……いつかは貴女は力が尽きてこの結界を……維持できなくなるはず……」
 ズルズルと足を引きずりながら、シエルはサツキに向かって歩を進めていく。
 その目は、サツキの姿をしっかりと捉えていた。
「狂ってなどいません……極めて論理的な行動じゃないですか」
 ヒッ、と小さな悲鳴がサツキから漏れる。

 この女は気が狂ってる。
 そんなことが可能になるまで、何度殺されると思っているのだ?

「無駄ってのが分からないの? ここはわたしのお腹も同然。貴女達の流した血は即座にわたしの力になるのよ。だから、何千回何万回繰り返したって……」
「だから何です? 私が他にやれることがあると思いますか?」
「あ、あなたの血は吸えるんだからね。あなたは不死身の化け物。だからわたしのタブーには……」
「それがどうかしましたか? あなたのタブーがどうとか、どうでもいい話です」

 シエルの言葉には何の迷いもなかった。
 例え自分の行為が無駄だったところで、戦い続ければ何かが見えるかもしれない。
 サツキを足止めし続ければ外から救援がくるかもしれない。
 自分の戦いが誰かの礎になるかもしれない。
 見ろ、諦めない理由はこんなにもある。

「この、コナゴナにして……」

 顔を歪めて不快感を露わにしたサツキが腕を振るおうとしたその瞬間、横から割って入った影によってサツキの体が横っ飛びに吹っ飛んだ。

「あ、アルクェイド!?」

 サツキを吹き飛ばしたのは、完全に戦意喪失していたはずのアルクェイドだった。
 体を貫かれた傷は、その超回復力で既に塞がっている。
「誰が腑抜けですってシエル? 人間ごときがそんな口をよく聞けたものね」
 射抜くような険しい顔。
 しかし、それは敵意のものではなかった。
 超越種ならではの、下等種を認めた証。
 対等の関係を許す意思が感じられる表情だった。


「おーどろいた」


 妙に間延びした声とともに、敵が起き上がる。
 その目は、初めて怒りに燃えていた。
「まさか、わたしを攻撃できるなんてね。タンスの角に指をぶつけたって感じかな」
 腫れた頬をサツキがひと撫ですると、すうっとその腫れが引いていく。
 本体は不死身でないとはいえ、サツキの再生能力は決して低くはなかった。
 絶望を与えるには十分の要素、しかし今更二人には怯む理由にはならない。
 相手の本体が極めて不死身に近かったところでどうでもよいことだ。

「アルクェイド、いったい何をしたのです? アレには肉弾戦なんて通じなかったはず……」
「空想具現で無理矢理あいつの世界に干渉して本体を引っ張り出したのよ。皮一枚ほどね」
「相変わらず、デタラメですね貴女は」
「シエルも人のこと言えないんじゃないの? それだけあっちこっちボロボロになって立てる人間がいるかしら?」

 二人は顔を見合わせて、お互いのことを笑った。
 勝つことなんてどだい無理だ。
 しかし、殴り倒すことは出来た。
 それだけでも、彼女達が抵抗するに十分すぎる理由となるはずだ。



――人間は諦めない?
――ただ見ているだけの俺は何だ?
――俺は何をしにここにいる?
『わたしがピンチになっちゃったら、その時だって助けてくれるよね?』
――ア。
『君の未来にはその力が必要となる時があるからこそ、その直死の眼があるとも言える』
――アァ。
――そうだ。
――俺は諦めてない。
――俺は人間だったんだ。



「死んじゃえ!」
 サツキの放った刃を、とっさにかわすアルクェイド。
 その気になった彼女にタイムラグのある攻撃を当てることなどは至難の技だ。
 すぐさま地を蹴り、サツキに肉薄し、今度はその腹をアッパーで殴りつける。
 ごろごろごろ、と見た目こそ派手に吹っ飛んでいるが実際に与えているダメージは微々たる物だ。
 攻撃が当たっているだけに過ぎない。
 だが、まさに悪あがきそのものの行動にサツキの怒りは更に増長する。

「女の子の……顔とお腹を殴るなんてどういう了見よ。二人まとめて串刺しにしてあげるわ!」

 サツキの次の動作が目に入った瞬間、アルクェイドは、はっとして地を蹴った。

 ――ブスッ、バスッ、ブシュゥ

 肉に槍が食い込む嫌な音にシエルは目をつぶる。
 だが、その痛みがこない。
 目を開けると、血まみれになって自分の前に仁王立ちしているアルクェイドの姿があった。
「あ、アルクェイド……貴女!?」
 ぐらりとアルクェイドの体が傾く。
 シエルは慌てて彼女の体を抱き止めた。
 今まであれだけ敵対してきた彼女が、こともあろうかその相手を庇った?
 ありえない事態にシエルは言葉を失いながらも、アルクェイドの体を揺する。
 こんなくらいでくたばる相手ではないのは分かっている。
 だが、その体を貫いたものの数と太さは尋常ではなかった。
「アルクェイド、しっかりしてください! 一体、何故……」
「……大したものね、人間」
「はい?」
「貴女以上に、まだ諦めてないヤツがいるわよ」
 小声でシエルに耳打ちをするアルクェイド。
 それでシエルは気付いた。
 自分を庇ったのではなく、サツキに悟られないように伝言をするために、わざとあの攻撃を食ったのだと。
 そして、彼女が伝える諦めていない者、その人物の姿をシエルも横目で見る。
 シエルは驚いた。
 その少年は本当に諦めてなどいなかった。
 少年は間違いなく『勝つ』ことを考えていた。

「他人を頼るのは性に合わないんだけど、わたしは志貴に賭ける」
「そうですね、もうダメ元です」
「行くわよシエル。あいつの注意を」
「ひきつけるんですね」

 こく、とお互いに頷いて二人はサツキを取り囲むように走り出す。
 アルクェイドがサツキを殴り、シエルがそれに合わせて剣を撃ち込む。
 サツキの体に腫れや切り傷がつくが、たちどころにそれは癒えてしまう。
 それでも二人は攻撃を止めなかった。
 サツキの爪に弾き飛ばされようとも、刃と化した混沌が足を貫こうとも……。
 糞に集る蝿のごとく周りを飛び回っては張り付き、サツキの心を苛立たせた。



――ヤツが無敵なのはこの虚構空間のおかげだ。
――それさえ破壊できればヤツの無敵はなくなる。
――だけどこの空間は完璧だ。
――壊しようがない。
――完璧?
――ではもし、完璧なものと完璧なものがぶつかったらどうなる?
――完璧な矛と、完璧な盾の話。
――ヤツの盾が完璧なら、俺の矛だって完璧なはずだ。
――視ろ。
――視い出せ。
――死を視るのではない。
――この目で、死を作り出すことをイメージしろ。
――視える。
――なんだこれ?
――よく視ると細かな傷ばっかりじゃないか。
――違う。
――この世界は、傷そのもので構成されているんだ。
――混沌とは矛盾を繋ぎ合わせて出来たものなのだから。
――矛盾。
――矛は盾に勝てる。
――何故なら。
――盾の裏を突けばいいだけなのだから。



 志貴はナイフを縦横無尽に、とにかく手当たり次第に振り回した。
 すると、車のガラスが割れるように細かなヒビが空間に広がっていき……。
 ドーム状に学校全てをそれが覆った瞬間、全てが砕け散った。
 パリィィィン、と鋭い音が鳴り響く。
 その音は、戦っている者達へもはっきりと聞こえた。
「……え?」
 呆然と、降り注ぐ無数の欠片を見つめるサツキ。
 その隙を二人は見逃さなかった。
 既に片足をもがれ、満足に動くことも敵わなかったはずのアルクェイドが、渾身の力を振り絞ってサツキを羽交い絞めにする。
「シエル! 第七聖典を!」
 もはや力がどうなどと言ってられる余裕などなかった。
 今この隙を逃せば、もう二度とチャンスなど巡ってこないかもしれない。
 だからアルクェイドは確実に相手の力を削ることを選択した。
 シエルもそれに応じ、地面に転がるその凶器を持ち上げると、すかさずサツキの腹に突き立てた。
 ズッ、とその切先がサツキの肉を抉り、血を噴出させる。
「アルクェイド、離れてください!」
 一声だけそう叫ぶと、シエルはトリガーを引いた。

 ダァァァン!

 聖典がサツキの体を貫き、その魂を消し去る。
 全ての決着はついた、かに見えた。

「この……クソアマァァッ!」

 凄まじい形相で逆上したサツキがシエルの体を、その爪でボロクズのように引き裂いた。
 ガラン、と持ち主を失った鉄の塊が地面に落ちる。
 その上を、サツキの夥しい血が真っ赤に染め上げていった。
 効かなかったのだ。
 志貴の手で、サツキの結界は破壊された。
 しかし、彼女の内なる混沌、すなわち体内の混沌はいまだ健在だったのである。
 もっとも、効果が全くなかったわけではない。
 保護すべき虚構空間を失ったことで、人間の身である状態の本体が直接ダメージを受けた。
 腹を鉄杭が貫通、人間なら致命傷である。
 サツキは結界の再構築を前に、死徒の力をもってその傷を癒さねばならなかった。
 だが、その隙を少年が見逃すはずもない。

 少年の眼が、ラクガキだらけの世界の中でラクガキまみれの少女を見い出す。
 点は二つ。
 胸に一つの小さな点と、腹部に大きな黒い点とも呼べぬ泉。
 少年は迷わずその泉の中央を、ナイフで貫いた。

 ――ズプリ

 嫌な音共に、白煙を上げてナイフが泉に沈んでいく。
 全てがその中に飲まれ、溶けた瞬間、サツキの体がぐらりと傾いた。
 それは二つに分かれ、一つは前のめりに志貴に向かって、もう一つは仰向けに何もない地面に向かって倒れてゆく。
 志貴は自分に倒れこんでくる少女を抱きとめようとして、その予想外の勢いと重さに尻餅をついた。

 そして、仰向けに倒れてゆくもう一人の少女は地面に倒れると同時に、バシャア、という音を立ててグラウンド全体に黒い液体を撒き散らして砕けた。


 ――終わった、のか?


 呆然とする志貴に、突如柔らかい感触とぬくもりが降ってくる。
 それは、自分に抱きついたさつきの感触だった。
「遠野くん! とっても、とっても怖かったんだよ!」
「……え? あ、ゆみ……づか?」
「そうだよ。わたし、弓塚さつき」
「ほ、ほんとに弓塚なのか?」
 ばっ、と体を離して志貴に自分の顔を見えるようにするさつき。
 その顔は、紛れもなくクラスメートだった弓塚さつきのものだった。
 志貴が安堵の表情を見せたのを確認するやいなや、さつきは再び志貴に抱きついた。
 さっきよりも強く、ぎゅっと……。
「ずっと、真っ暗なところにいたの。わたしじゃないわたしがいて、もの凄く怖くて、寒くて……あのまま消えちゃうんだと思ってた」
「それは……大変だったね」
 以前ならここでさつきが『もう』とか溜息をついていたことだろう。
 だが、涙を流して嗚咽が混じったさつきはそれどころではなかったようだ。
「今度も、助けてくれたのは遠野くんだったね」
「いや、まあ、その……約束、だったしね」
「きっと……来てくれると思ってた。だから、わたしもがんばれた…ん…だよ」
 首筋にこぼれ落ちてくる温かい雫。
 それを感じて志貴は『参ったな』と思った。
 やはり、どうあっても志貴という少年はこういう場面が苦手らしい。
「遠野くん」
「……な、何」
 今度は両肩をつかまれ、さつきに間近で凝視される志貴。
 さしもの彼も、この体勢には少なからず動揺した。
 なんたって、涙を湛えた弓塚さつきがきれいだとか思えてしまったから。
「わたし、遠野くんのことが好き。大好き。遠野くんは?」
「え、いや、こんな場面で言う言葉じゃないんじゃないかな」
 志貴はしどろもどろに答えを避ける。
 いくら彼が朴念仁とはいえ無理もない。
 辺り一帯に黒い液体がぶち撒かれ、脇には血まみれの女性二人が肩を貸し合って立ち上がろうとしている状況。
 どう考えても告白のシチュエーションじゃないだろう。
 だが、さつきは首を振って強い口調で言った。
「今だから言うんだよ。だって、明日はもう会えないかもしれない」
「ああ、それもそうか……うん」
 どうにも煮え切らない志貴だが、さつきは気にしなかった。
 志貴がそういう少年であることをさつきはもう十分理解していたから。
「わたしの気持ち、伝えたからね」
 立ち上がり背を向けて後ろに手を組みながらそう言ったさつきに、少し胸の鼓動が早くなるのを感じる志貴だった。
 この少年は『嫌いじゃない』とか少しくらい気が利かせられないのだろうか、まったく。


「……娘よ」


 突然聞こえた男の声に、その場の空気が張り詰める。
 それはサツキと共に消滅したと思われた男の声。
 恐る恐る全員がその声のした方向を振り向く。
 黒い液体の中に、顔が半分崩れ落ちた男の生首が浮かんでいた。
「……おじさん」
 さつきは彼とどう接していいのか分からない。
 彼は、自分を黒い夢へと誘った張本人だ。
 だが、今日までさつきを生かしてくれた救いの主でもある。
 さつきとしては彼を憎むべきなのだろうか?
 それとも……。
 答えが出ないまま口をつぐむさつきに、ネロは構わず語り始めた。
 彼に残された時間はもうほとんどなかったから。
「汝の勝ちだ。人間であることを望み続けた汝の心が勝ったのだ」
 そして、ネロは自嘲するように口元を緩ませる。
「よもや、とうの昔に捨て去ったはずの感情が私にも残っていようとはな……」
 ぶすぶす、と黒い液体が白い煙を上げ始める。
 その中心部に浮かぶネロの首からも。
 それは、サツキの力を構成していた混沌そのものだった。
「だが、悔いはない。この死はむしろ誇らしくもある」
 悔いなどあろう筈もない。
 誰も到達したことのない高みに上り詰め、あの最強の真祖をも圧倒したのだから。
 そして、今ここで滅ぶことによって、彼が収めた勝利は永遠のものとなる。
 誰にも侵されないものを手に、彼は黄泉へと旅立つのだ。
「……おじさん」
「娘よ、悲しむことはない。汝が人間である限り、この別れも一時のものだ」
 ぶすぶす、とネロの首が黒い液体へと沈んでいく。
 もうすぐ口が飲み込まれようかというところで、ネロはさつきに最後の笑みを送った。

「さつき……私は楽しかったぞ」

 それを最後に、ネロはザァと塵芥となって消えた。
 同時に、撒き散らされた混沌も全て蒸発し、消滅する。
 ネロの浮いていた、今はもう何もない地面を見つめるさつきの頬を一筋の涙が伝った。

「さよなら、おじさん」



 しばらく、そこを動かなかったさつきだが、やがて目をごしごしと袖で拭い志貴の方を振り返る。
 そして、穏やかな顔をして彼に呼びかけた。
「帰ろ、遠野くん」
「ん、ああ、そうだね」
 またも一瞬さつきに見とれていた志貴がワンテンポ遅れて返事をする。
 そう言えば家の方向は同じだったなとか思い出しながら。
「あれ?」
 と、そこで周囲を見回した志貴が素っ頓狂な呟きを漏らす。
「どうしたの?」
「アルクェイドと先輩はどこに行ったんだ?」
 言われてさつきもあたりを見回す。
 だが、さっきまでそこにいたはずの二人はどこにも見当たらなかった。
「おかしいな、さっきまではちゃんといたはずなのに」
「先に帰っちゃったのかな?」
 顔を見合わせて首をかしげる志貴とさつき。
 二人の疑問に答える声はなかった。





 そのころ、校門を駆け足で抜ける一つの影。
 それは、シエルを背負ったアルクェイドの姿だった。
「よかった…です…ね……」
「何がよ?」
「遠野くんと……弓塚さんです……」
「ん、まあそうね。良かったんじゃない? よく分からないけど」
「アルクェイド…貴女、力は……」
「取り戻せたわ。志貴があいつの力の繋ぎ目を破壊してくれたおかげで、あるべきところに戻ったみたい」
「そうですか……よか……ったですね」
「シエル! しっかりしなさい! こんな所で死ぬんじゃないわよ!」
「あ、は、は……どうやら……私も、ロアの呪いが……解けたみたいです。これでようやく……死ね……」
「ふざけるんじゃないわよ!」
「アルク……ェイド……?」
「人間は諦めない、そう言ったのは貴女よ。わたしにあんな言葉を吐いておいて死ぬなんて、絶対に許さないんだから」
「ふ、ふふ……馬鹿なこと言っちゃいました……ね……」
「もう黙ってなさい。舌噛むわよ」
 傷だらけのシエルを背負って、アルクェイドが地を蹴る。
 彼女が暮らすマンションへの、文字通り最短距離を跳んでいくために。


 わずかに白みがかった地平線。
 夜明けはすぐそこまで来ていた。






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