ミンクに導かれ、汐と秋生がたどり着いたのは、所謂校舎裏と呼ばれる場所だ。
 運動会に賑わう学校ではあるが、校舎内とここだけはまるで別世界のように静寂で包まれていた。
「何か、嫌な静けさだな」
 秋生にも伝わる、何ともいえない圧迫感。既に具現化させた杖を、ぎゅっと握る汐の手に汗がにじむ。
 しばらく周囲に気を張り巡らせていると、何かが校舎の影からのしのしと歩いてきた。
「……ふえ〜」
 それが目に入ったとき、思わず声が漏れた。
 現れたのは、白色に輝く、通常より三倍ほどの大きさの犬。そう、犬である。
 品種はわからないが、大型犬であることは間違いない。顔つきや、体のバランスでわかる。
 おそらく誰かに連れられて来た飼い犬がはぐれ、光に遭遇してしまったのだろう。
 そして憑依、はたまた力を具現させ、このような次第になってしまった。というのが妥当な推測か。
「でっかい」
「こりゃまたでけぇなぁ。四足のままで既に熊並のタッパだぜ」
「あれが校庭に行ったら、大騒ぎになっちゃいますね……」
 汐と秋生は呑気に見上げていたが、ミンクの言葉にはっとする。
「人目につかないうちに光を封印してしまいましょう」
 ミンクの言葉に一つ頷き、杖を構える汐。
 だが、見上げる先には、きりっとした大きな大きなお犬様の顔。
「……ねぇ、ミンク」
「何でしょう?」
「どうやって攻撃すればいいのかな……。それに、あのわんちゃんに、私の攻撃が効くと思う?」
 もうちょっと愛らしい顔ならば先に戸惑いがでてきそうなものだが、堂々と立派なこの姿には違う不安が沸き起こる。
 体格的に見ても、とてもじゃないが正攻法で勝てるように思えないほどだ。
「難しいところですね。あまり強力な魔法は大きなダメージを与えてしまう懸念がありますし……。ある程度のダメージは覚悟の上で、なるべく魔力ダメージ優先で攻撃しましょう。そうすればあの仔にかかる衝撃を最小限にすることができます」
「うん。わかった」
「そうなると、水を操る私ではどうしても物理ダメージが大きくなってしまいます……」
 申し訳ないという顔で汐を見るミンク。
 それで悟った汐は口をぎゅっと結び、気合を入れる。
「…頑張る!」
 汐は杖をかざし、イメージをつむぐ。
「バトルコスチューム、装着!」
 練習の時、何度も繰り返した手順である。もうその動きによどみはない。
 戦闘服をまとい、巨犬を見据える。
「ジャンプっ!」
 跳躍の光を発動し、軽く地面を蹴る。それだけで汐の体は、少なく見積もっても2mは上昇した。
 そのまま杖を大きく振りかぶり、落下速度を乗せて巨犬の胴体に打ち付けた。
「〜〜っ!」
 地面に降り立つとすぐさまバックステップで距離をあける。
「駄目、全然手ごたえがないよ」
 毛に包まれた体は、ほぼ完璧に打撃の衝撃を吸収していた。
 小型犬ならともかく、大型犬の体は人間よりよっぽど強く出来ている。加えて、そのサイズを大きくしたら尚更だ。
 巨犬は、何事もなかったかのようにしている。
 何も反応しなかったことから見て、性格は温厚のようだ。元より、飼い主が子供たちが大勢いる学校に連れて来るぐらいだから、当然のことかもしれないが。
「汐。魔力を込めるというのは、単に殴る力を上げれば良いものじゃありません。今のでは単にあの仔を殴っただけですよ」
「でも、どうすればいいの? 魔力を込めるって、よくわからないよ」
「杖に想いを込めるんです。魔法を使うときと同じように、今度は光を呼び出すのではなく、自分の念を込めるような感じで」
「うん……やってみる」
 汐が杖に意識を向けようとした瞬間、ふと巨犬がこちらを見て大きく口をあけた。
「――っ!!」
 その圧迫感に、汐は思わず硬直した。
 敵意は見られないが、開かれた口から覗く牙は鋭く、奥まで見える喉は大きかった。
 巨犬を挟んだ反対側では慌てる秋生の姿が見える。それほど、巨犬が持つ威圧感は強かった。
「気圧されてはいけません。あの仔を元に戻すという気持ちを強く持って、杖に込めてください」
「うん……」
 いつの間にか汐のそばに飛んできたミンクの言葉を聞き、汐は目を閉じる。
 杖を抱き、想いを込める。感じられる、杖の鼓動。
 目を開いた先で、だんごがぽぅっと光る。その色は、紫。
 先日手に入れた射撃の色だ。
 これを使えと、杖が言っているのだろうか。
「わかった、あなたを信じる、ファミリーロッド!」
 そのまま光を発動させ、杖を犬に向けた。
 キュイィィンという音とともに、だんごにエネルギーが収束される。
「一撃で終わらせる。ピンポイントで光に直撃させれば、きっとわんちゃんと分離させられるはず。絶対見つける!」
 杖を通じ、巨犬の体を探る。
 光の力で犬を大きくしてるなら、常に魔法が発動してるはず。ならば魔力が集中している箇所、それが光が潜んでいる場所だ。
 精神を集中させ、魔力の流れを感じ取る。やがて、巨犬の体を走る微かな魔力の流れが集まっている中心を発見した。
「見つけた。いけ……ショット!!」
 汐の呼び声と共に、だんごからビームが発射された。
 かつて光自身が使ったものとは速度を除き、全てが違った。あの時の光が放っていたのが散弾とするなら、汐が放ったのは分散させた力を一点に絞った貫通弾だ。
 ビームが巨犬のある一点に直撃し、その衝撃で光と犬とが分離された。見事、狙いは的中したのだ。
「今です、光を!」
「うん。行くよっ!」
 飛び出た光に肉薄し、全力で杖を振るう。
 まず上から打ち下ろし、次に右に薙ぎ、突き、最後に右にターンしてすくい上げるように打ち上げた。
「ストライクー……」
 そして、振りぬききった状態から、体の捻りを使い返す刀で突き出して討つ。
「インパクトっ!!」
 だんごが光に触れた瞬間、込められた魔力が爆発した。光は力無く地面に降下する。
 汐はすぐ杖を引き、封印の詠唱に入った。
「魔法士、岡崎汐の名において命ず。光よ、我に従い、我の力となれ!」
 足元に魔法陣が展開され、光がゆっくりと浮き上がる。
 やがて、光はだんごに吸い込まれ、強く白色に輝き、消えた。
「ふぅ、何とか封印完了…かな」
 腕で額をぬぐい、汐はだんごの中の光を確認する。
「汐っ、大丈夫か?」
「うん。でも、私よりわんちゃんのほうが……」
 すぐ駆け寄ってきた秋生はまず汐の無事を確認し、そして倒れたままの、元の大きさに戻った犬を診る。
 汐はそんな秋生と犬をじっと見つめていた。
「今回は、成長の光のようです。それで巨大化したんですね」
「えっ……成長って、あのわんちゃん、あんなに大きくなるの?」
「んなわけあるか。あんなでっけー犬がいたら即座に天然記念物だ」
 犬を診ながら、振り向きもせず秋生が突っ込む。
「光そのものが実体に宿った場合、力が際限なく発動してしまうことが多々あります。今回も、過剰に働いてしまったんでしょう。だからこそ魔力の消費も大きく、魔力疲労で意識を失ってしまったのかと」
「なるほどな……よっと」
 秋生がそっと犬を抱き上げる。
「大丈夫だ。外傷はないし、骨が折れてるとかもない、呼吸も安定してるし、ただ寝ているだけだ」
「先ほどのショットは魔力ダメージだけですからね。魔力が大量消費されているところに更にダメージが加わったため、眠ってしまっているんでしょう」
「うん。でも……ごめんね、わんちゃん」
「汐……」
「わたし、もっと頑張るよ。こんなことがもうないように、誰も傷つかないように」
 汐は手を胸の前で握り、うなだれ、ぎゅっと体を縮めるように力を入れた。
 ただでさえまだ小さい汐の体が、更に小さく見えるようである。
「……んじゃ、俺はこいつを飼い主のとこに届けてくる。お前は先に席に戻ってな。集合時間があるんだろ?」
「う、うんっ」
「ちょっと、汐。バトルコスチュームを解除して、杖もしまわないと」
「あ、いけないっ」
 慌てて変身を解いて体操服に戻り、走り去る汐を、秋生は犬を抱きながらじっと見つめていた。


「ところでよ、何で競技してきた俺よりオッサンのほうが疲れてるんだ?」
「うっせぇ。ったく、飼い主を探すのがこんなに大変だったとはな」
「は?」
「なんでもねぇ、気にすんな」
 疑問の声を上げる朋也をあしらいつつ、靴を脱いだ秋生はどさっと古河家の陣地の上に座る。
 そんな秋生にポットから取り出したお茶を渡し、早苗が微笑む。
「秋生さんがいないから、朋也さんの雄姿は私がうつしましたよ。渚は応援に一生懸命でしたしね」
「お、お母さんってば」
 照れる娘を可愛らしく思いながら、秋生は隣に座る朋也にたずねた。
「んで、結果はどうだったんだ?」
「決まってるだろ。一位だ!」
「へっ、威張って言うことか。この程度の競技で一位をとれない男に渚をやった覚えはない!」
 不適に笑う朋也を、秋生は一笑に伏した。そして二人はバチバチと火花を散らす。
「秋生さんは素直じゃないんですから。本当は喜んでるんですよ、朋也さん」
「んなわけあるかっ。変なこと言うな、早苗っ」
「ありがとよ、オッサン」
「けっ。言ってろ」
 朋也が意地悪く笑いながら礼を言うと、秋生がふんとそっぽを向いた。
 その言葉に偽りはなかったのだが、この二人はこれで良いのだ。
「でも、やっぱり朋也くん格好良かったですっ」
 手を合わせ喜ぶ愛する妻の笑顔、そして与えられる賛辞。それが、朋也にとって何よりの褒美だった。


「次は、三年生による玉入れです」
 放送部によるアナウンスが流れる。
 学年ごとによる団体演技だ。これは点数に加算されるものと加算されないものがあるが、こちらはもちろんされるほうである。
 赤い玉と白い玉がグラウンドに散らばっていて、それぞれの中央に棒が立ち、頭頂部にかごが設置されている。
 万が一でも倒れないように、下で棒を先生が支え、その周りに入場した生徒が散らばり、両手に一つずつ赤玉を持つ。
「汐ちゃーん、頑張れー!」
 渚と早苗が声援を送り、朋也はビデオを構えている。
(さっきの疲れが出てねーといいけどな。魔法の疲労はまた体の疲れとは違うとかって話だし、変に疲労が出なければ良いが)
「汐ー、頑張れー!」
 他の家族が張り切って応援する中、秋生は若干控えめに声援を送った。
「それでは、玉入れを開始します。よーい!」
 パァン!
 銃声が鳴ると、一斉に子供たちが玉をかごに向かって投げ始める。
 上方に向けてただ玉を投げ続ける。戦略性も何もない、いたってシンプルな競技だ。
 それだけに、個人戦力が物を言う競技でもある。特に五割以上の確率で投げ入れられるスナイパーがいるとそれだけで戦況が変わる。
 汐もその一人だった。生来の運動神経もそうだが普段からキャッチボールなどでボールに慣れているのが大きい。
 投げる総数は少ないものの、確実に投げ入れ、七割近い確率でかごへと投入していく。
 しかし、ただ投げ上げるだけの子たちの玉が入るかはほぼ完全に運だ。赤組は汐以外の子の成功率が低い。
「どうにも旗色が悪いな」
「ええ。赤組の玉がほとんど入りませんね」
 不安げに見つめる家族一同。
 団体競技は個人がいくら頑張っても、他の人が足を引っ張っては勝つことはできない。汐が確実に入れられても、物量にはかなわないのだ。

 終了を告げる銃声がなり、宙を飛び交う玉が急速に消えていく。完全に収まったところで先生がかごを傾け、手を中に入れた。
 集計をかねた結果発表である。
「いーち、にーい、さーん」
 アナウンスによるカウントにあわせ、かごの中に入った紅白の玉がどんどんと投げられていく。
「よーんじゅ、よーんじゅいち……」
 赤組の先生の手が止まり、かごをひっくり返し、空であることを示した。
 そして十数個の後、白組の玉がなくなり、アナウンスによって勝敗が告げられた。
「白組の勝ちでーす」
 応援席の一方から喜びの歓声が沸き、一方からは落胆のため息が漏れる。
「あー、惜しかったなー」
「でも汐ちゃんは頑張ってました」
「ええ、一番多く投げ入れてたと思いますよ」
「でも、何か調子が悪そうだったな。疲れがでてきたんだろうか」
「………」
 三人の会話を聞きながら、秋生が神妙な顔をしていた。
 秋生もまた、同様のことを感じたのである。そして、秋生だけにはその原因に心当たりがあった。
(やっぱり動きが鈍かったな。ふらつきとかはしなかったし、やっぱ魔法の疲労があるんだな。それに汐のことだ、あの犬のことも気になってるんだろうな)
 心配する気持ちは大きいが、自分にできることはない。もし本当に危なければミンクが汐を止めるだろう。
 無力を嘆いていても仕方がない。なら、秋生がすべきことは唯一つ。精一杯応援するしかない。
 それは、汐が光と戦っている時も思っていることだった。

「ねぇ、汐ちゃん、大丈夫?」
「え?」
 グラウンドから退場した後、二人の女の子が汐のそばにやってきた。
 汐と仲が良い、クラスメイトでもある真央と凪だ。
 最初に話しかけてきたのが凪で、後者が真央である。
 真央は運動神経皆無、成績中の下、どじっこと三段構えだが明るいムードメーカー的な子だ。
 凪はおっとりしているが、運動神経が良く、いつも体育の時間は汐と競争していたりする。ちなみに凪もまた、紅白リレーに出る選手の一人だ。
「そうよ。何だか調子、悪そうだったけど」
「……わかっちゃうかな?」
「当たり前じゃない、あたしたち付き合い長いんだから」
 腕を組んで真央が言う。
 小学生が言うにはあまり適してない言葉ではあるが、それは正しい。
 三人は幼稚園からの友達で、今までクラスが変わってもずっと仲良くしてきているのだ。
「あんた確か紅白リレーも出るんでしょ。大丈夫なの? 辛いならきちんと先生に言いなさいよ」
「うん、大丈夫だよ」
 実際、体力的にはまったく問題がないのだ。気疲れとでも言えば近いのだろうか、どうにももやもやとしただるさが抜けない。
 そんな様子を見抜いているのか、凪が心配そうな表情で汐の顔を覗く。
「お願いだから、無理しないでね。リレーなら、私も頑張るから」
 汐は二人の親友を見て、心配してくれることをありがたく思いながら、うん、と言った。
(大丈夫、リレーまでまだ一時間はある。それまでには全快してみせるよ。絶対っ)


「最後の紅白リレー。汐ちゃん代表です」
「うっし、これだけは見逃すわけにはいかねぇ!」
 渚が興奮気味に言うと、秋生が意味もなく右足を立てて身を乗り出す。
 ちょうど、朋也が構えるカメラに映る所に。
「おいオッサン! 邪魔だって!」
「あら、もう走る準備をしているみたいですね」
「後のほうは高学年が担当しますから、三年生は一番最初ですっ」
 朋也が秋生をどかしている間に入場が済み、選手たちはスタンバイに入った。ちなみに補足しておくと、紅白リレーは赤白それぞれ二組ずつ出場し、計四チームで競う。
「いけー! 汐ー! ぶっとばせー!」
「お父さん、その応援は何か違いますっ」
 第一走者と第二走者がトラックに入ったところで秋生が騒ぎ出す。ビデオ撮影の邪魔にならないよう、不服ながら後ろのほうで。
 などといっている間に銃声が鳴り、ランナーが一斉にスタートした。ちなみに第一走者は凪で、本命の汐は第二走者である。
 凪も汐に遠く及ばないとはいえ、足の速さには定評がある。リレーに参加してることからもわかるように同年代の中ではかなり速いほうだ。
 決して、今走っているほかの子たちに比べて劣ることはない。
 が、その時、思わぬハプニングが起こった。
 最初のカーブで、凪が転倒したのだ。
 校庭の各所から驚きの声があがる。それは凪を待つ汐も同じだった。
 痛む体に活をいれ、凪が起き上がる間に、他の三人がどんどん先へと走っていく。
 ようやく走り始めたころには既に先頭とは10m弱ほど離されていた。
「まずいな、かなり差つけられたか」
 秋生が舌打ち(もちろん凪に対して悪意を持ったものではないが)する。
「大丈夫、汐ちゃんならやれますっ!」
「ああ、そうだ! 汐ならやれるさ!」
 自分の子供ならやれる、と言う。こんな二人を親馬鹿だと言う人もいるだろう。
 だが、この二人は本当に、心の底から汐を信じているのだ。
 朋也と渚は、ただ信じて目の前に広がるグラウンドを見つめていた。

 同時刻、汐は興奮しながらも、どこか冷静に場を見ていた。
(もう魔力疲労はすっかり飛んでる。あれぐらいの差なら、まだいける。リレーは始まったばかりだ。なら、わたしは全力を出し切るだけ!)
 汐の前で次々と第二走者へとバトンが渡されていく。
 そしてようやく、凪がやってきた。
「ごめん、汐ちゃん。お願いっ」
「大丈夫、任せてっ!」
 併走をしながらバトンを受け取る。
 バトンをしっかと握ったことを確認すると、汐は即座に加速を開始した。
 腕を振り、地面を蹴り、足を前に出す。風を切り、ただひたすらに体を前へ、前へと伸ばす。
 改めて説明しよう。同年代と比べ、汐は抜群の運動神経を誇っている。男子と比べても遜色が無いどころか、張り合い、勝てるぐらいだ。
 だから汐は短距離や長距離では常に学年トップをもぎとっていたし、上級生のタイムと比べても上位に食い込む。
 何度も言おう。岡崎汐は小学三年生としては桁違いのスペックを誇っている。
 しかし、そのことを踏まえた上であっても、今トラックで展開されている光景は常軌を逸していた。
 いくら汐が二番手で各走者の差がそこまで開いてないとはいえ、転倒によるロスは大きい。更に、低学年は50mしか走らないのだ。
 その50mで、汐は、前を走る三人をゴボウ抜きにした。
 トップスピードでカーブに入り、まず三位の白組の子を抜かし、そのまま二位の同じ赤組の子を抜かす。
 一番コースでバトンを受け取れたのが幸いした。通常カーブではコースに沿って曲がるために多少速度を落とす必要がある。
 だが、汐は速度をほとんど落とさずに入り、大回りで二人を追い抜いた。これは相手を追い抜くことを確信したからこそ、できたことである。もし追い抜けなければただ大回りに走っただけにすぎない。
 残るは先頭を走る白組。最後の直線でも、汐は二番コースを走った。前で待つ第三走者が混乱するのを避けるためもあるが、とにかく、前に走るランナーを追い越すことしか考えていなかったからだ。
 前のランナーとの差は直線に入った時点で5mほど。十分射程距離の範囲内。直感的にそう判断した汐は、その一見華奢な足に、更に力を込めた。
 見る間に汐と白組の子との差がぐんぐん縮まり、そしてついに、白線の4m前ほどで白組を追い越し、汐はトップに立った。
 慌てて二番コースに移動した様子の四年生の第三走者にバトンを渡し、汐はゆっくり足を止めながらトラックの内側へと入る。
 自分の役目は終わった。膝に手をついて頭を落とし、息を整える。ほてった体にそよぐ風が心地良い。
「汐ちゃーん、凄いですー!」
「さっすが汐だ! ブラボー!!」
「よくやったぞ汐ー!!」
 一度大きく深呼吸して体を起こした頃、ようやく家族の歓声が聞こえた。恐らくずっと応援していてくれたのだろうが、まったく耳に届かなかった。
 そのことをちょっと申し訳ないなと思いながら、汐は胸を張り、カメラを構える父に向かって勝利のピースサインを送った。


「っしゃああああ!!」
 銃声をかき消すほどの秋生の咆哮が響き渡る。汐の組が一位をとったのだ。
 保護者席側でこれほどヒートしているのは秋生ぐらいであったが、汐の活躍に浮かれていた岡崎古河一家はまったく気にしなかった。
 無理もない。汐は間違いなくこのリレーで一番の活躍をした、まさに英雄だ。
 それは、生徒たちも同じことだった。
 退場した選手の集団の中で、汐が赤組どころか白組の子まで混ざって囲まれていた。有名人さながらの人気である。
 選手たちは一言ずつ汐に祝辞を述べた後、それぞれの席へと帰っていき、最後に当人の汐と、凪だけが残った。
「あの……その……ごめんね、汐ちゃん。私が」
「いいよ、事故なんだから。それに、結果的に一位になれたんだしね」
 凪の言葉を遮って汐が言う。
 確かに凪の転倒は痛い失敗だった。だが汐はまったく気にしていないし、他のみんなも同じだろう。何より、この程度のことで気を病んで欲しくないのだ。
「でも……」
「そうそう。それに、凪ってばあたしのこと忘れてるでしょ? あたしなんてしょっちゅう転んでるのよ」
 二人が声がかけられた方を見ると、いつものように腕を組んだ真央が立っていた。
「あ、真央ちゃん……」
「それより、怪我がなくて良かったわよ。思いっきり転んだから、心配したのよ」
 本当に大丈夫でしょうね? と言って、真央が凪の足や腕を取って見る。
 なされるがままの凪の体をひとしきり診て、怪我がないことを確認すると、人差し指を立てて改めて言った。
「あんなのよくあることよ、去年転んじゃった子もいたじゃない。第一もしあたしが出たら、たとえ転ばなくても同じぐらい、ううんきっとそれ以上の差つけられるわよ。それに比べたらずっとマシだと思わない?」
 若干自虐的なことを言っている気がしないでもなかったが、真実でもあるのでとりあえずスルーして、汐は改めて言った。
「だから気にしないで、ね」
「そ、結局はそーいうことを言いたかったの」
 にっこり笑う汐の言葉に、真央はうんうん頷く。
「うん、ありがとう」
 親友二人の気遣いに、凪は、困ったようにではあったが、ようやく笑みを浮かべた。


 プログラム最後の競技だった紅白リレーの終了とともに、運動会が終わろうとしていた。
 全生徒が肯定に並び、閉会式が執り行われる。
 総合結果では惜しくも白組が僅差で優勝となったが、汐は満足していた。自分は全力を出し切ったのだ。悔いは無い。
 だがそれでも、汐は晴れ晴れとした気持ちで閉会式を迎える、とまではいかなかった。
 光の件が、どこか、心にしこりを残す。
 お決まりのBGMの中、台の上から校長が優勝旗、優勝杯、準優勝杯をそれぞれ手渡し、校庭が拍手で包まれる。
 そして、閉会式が終わりを迎える。結局、汐の表情は最後まで晴れなかった。
 スピーカーから流れるクラシックの音楽に乗せて、生徒が学年ごとに順に退場していく。
 汐の学年が後ろを向いた時、ミンクが不意に話しかけてきた。
『見てください、汐。あそこを』
『え、ミンク?』
『ほら、あそこです』
 魔力感応によって、ぼんやりとだが汐はミンクの動きを感じ取ることが出来る。それを使って、汐はミンクが意識を向けた方向を感じ取り、その先を探す。
『あ、あのわんちゃん…』
 保護者席の後ろの方、飼い主らしき男性の横で、元気そうに尻尾を振っている犬の姿が見えた。
 視線に気づいたのだろうか、犬はこちらを見ると、一際ぶんぶんと尻尾を振ってわんっと一声元気よくほえた。
『良かったですね。感謝してるみたいですよ』
 ミンクの言葉にはっとした汐の顔から驚きが抜け、自然と笑みがこぼれてきた。
『うん。だと、いいな』
 穏やかな笑顔を見てミンクは、やはり汐は笑っているほうが似合うと、改めて思ったのだった。



第四話

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