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「倉田運輸」
  作 Mumuriku



               −第3章−

1.

「すいませーん」
 課の入り口から、怯えた声で呼ぶ者が居た。
「ごめんくださーい」
 何度も繰り返すが、課室はがらんとしている。ようやく気付いた美汐が会議から抜け出てくると、郵政公社の若い配達人が市街地用迷彩服を着たロシア人に挟まれ恐縮していた。
「あの……倉田運輸特送課さんはこちらですか?」
「そうです」
「この人たち何なんですか?玄関でボディチェックされたんですけど」
「軍隊時代の癖が抜けないんです。ゲンナジーさん、ドミトリーさん、もう結構ですよ」

「ダー、アマノーリン!」

 敬礼と共に軍靴の踵を鳴らせ、二人の元軍人は廊下を引き返していく。
「ここ……普通の会社ですよね?」
「はい」
「どうして迷彩服を着た外人がこんなに居るんです?」
「ここには常時20人位しかいませんよ。護衛隊本部には500人以上います」
「何屋なんですか……」
「私も、少々自信がなくなってきています」
 その時、大きなかけ声と共に元軍人たちが駆け足で廊下を通り過ぎた。
「戦争でも始まるんですか!」
「いえ、訓練です。野球の」
「は?」
「先週、町内会の草野球大会に参加したんですが、連合商店街チームに負けてしまったのがとても悔しいそうです」
「あの人たちが負けたんですか?」
「魚屋の源さんが投げる変化球のせいで、全く打てなかったんですよ」

 体に比べ、いやに小さく見えるバットやグローブを持つ男たちが行進していく。護衛隊に改組された軍人たちの大部分はモスクワ郊外に駐屯しているが、少数はアジア・アフリカ・中東など、治安や交通インフラの悪い地域に派遣されている。
 そういった土地では、BTR−70装輪兵員輸送車やヘリが有効に活用され、隊の中には資格を持つ軍医もおり、傷病者の緊急搬送中に応急手当を行うことも出来た。万一に備えて車両や装備の点検・訓練を行うが、平時は一般社員と同じ勤務に就いており、本物の元軍人ということから貴重品や現金の輸送依頼などが舞い込み、本社勤務の隊員たちは意外と忙しい日々を送っている。

「それで、ご用は何でしょうか?」
「こちら宛の郵便なんですけど、料金不足でして。お支払いいただけますか?それとも受け取り拒否で戻しましょうか?」
「切手でいいのですよね」
「はい、構いません」
 美汐が、ごそごそと引き出しを開けながら訊いた。
「おいくらですか?」
「540円です」
「え? どうしてそんなに高いのです?」
「えーと、中国からの国際郵便なんですけど、向こうの最低額の切手しか貼ってないんですよ」
 その為、航空便ではなく船便扱いで届いたらしい。課の経理を預かる美汐にとって1個連隊700人の給料を支払うための経費節減が至上課題にあり、差出人の非常識と無礼に憤りながら、料金分の切手を差し出した。
「はい、ありがとうございます」
「ご苦労様でした」
「ゆうパックと簡保のパンフレットも置いていきますので、後でご覧になって下さい」
「そういった物は結構です」
 美汐は丁寧に断るが、公社化されたせいか配達人は粘る。
「でも、保険はちゃんとお入りですか?あと、お子さんの学資保険なんかはいかがです?」
「子供……ですか?」
「ええ、奥さん。今の時代、教育費だって馬鹿にならないですよ」
「…………」
「どうかなされましたか?」
 確かに自分は地味だし、世帯じみているように見られることもある。美汐自身薄々気が付いている事だが、実年齢は課でも一番若い。
「そんな酷なことはないでしょう……」

 郵便配達人は、美汐に呼ばれたゲンナジーによって引きずられていった。



2.

 月初めの定例会議は珍しく長引いていた。それは、佐祐理さんが北朝鮮への大規模な支援策を提案してから4時間も続いている。

「今年の作柄は昨年以下との予測です。各国の支援が止まったままですと、数万単位で餓死者が発生するでしょう」
 会議室のプロンプターには今朝のアーリーバードによる情報資料が映し出されており、秋子さんが評価レポートを総括した。
「でもさ、北朝鮮は弾道ミサイルまで配備してる危険な国家だぞ」
「そうね北川君。核施設の運転を停止して、兵器転用可能な放射性物質の査察を受け入れさせるべきだわ」
「そうすりゃ各国からの援助だって再開される」
「外交交渉のカードとして、穀物援助は最大の切り札よ」

「ふえ〜」
 中心に座る佐祐理さんが、困った顔で発言した。
「香里さん、佐祐理は交渉に人の命なんて賭けたくないですよ〜」
「……(こくこく)」
「あたしだってそうよ。でも、あの国自体が変わらない限り何をしても無駄なような気がするわ」
「あんなに軍備にお金を使わなきゃ、こんな事にならないのよっ!」
「うぐぅ……どうすればいいのかな?」
 郵便を持って戻った美汐が訊いた。
「今すぐやらなければいけないのでしょうか?」
「天野さん、北朝鮮に一般市民向けの穀物備蓄は事実上ありません。外国から輸入するとしても、それに充てる外貨準備は無いと見ています」
 秋子さんは冷静に答える。
「他の国ならともかく、北朝鮮だからなあ」
「祐一さん、佐祐理たちはそこに住んでる人たちの事を考えてるんですよ〜」
「うぐぅ……でも、倉田さんの計画だと10年間で凄い金額になるよっ」
「年間250万トンなんてどうやって運ぶのよっ」
「社の大型貨物船10隻で6往復くらいでしょうか?確かに不可能ではありませんが……」
「あの国の穀物生産の半分近い量じゃないか!」
 議論は割れていた。
 
 と、それまで殆ど口を開かなかった久瀬が話し始めた。
「僕は、全く違う観点からだが倉田さんに賛成だ」
「え、なんでだ? 久瀬」
「相沢、貧困は不正を思いつかせる。空の袋は立たないのだよ」
「はあ?」
「なんだそりゃ?」
 祐一と北川が訝しげに久瀬を見る。
「倉田さんは言った、そこに住む人たちの事を考えると。相沢、人は何で生きると思うかね?」
「いきなり何だよ?」
「昔、マズローと言う学者がな……」
「誰だそいつ?」
「北川、終いまで聞かんか」
 むっとしながら久瀬が続けた。
「その学者がな、人間の欲求についてのモデルを考えた。ちょっと気になる所はあるが、結構良い着眼だ」
「ふーん?」
「簡単に言うとだな、人間は先ず食べて生きて行かなくてはならん。次に服や住宅など安全や快適さを求める。物質的に充足されると今度は社会的なものが目標となり、最後は自己実現。そういった”段階”があることを示したのだ」
「つまり飢餓状態のあの国では、いくら理想を押しつけてもお腹一杯になるんなら何でもやるって事かしら?」
「美坂君の言うとおり、核の疑惑をちらつかせて他国を脅迫するのもその所為だろう」
「悪の枢軸ですー」
 冷蔵庫から、栞が今日5個目のカップを取り出した。



3.

 久瀬が、冷め切った渋茶を啜る。
「そういった国を追いつめるのは、得策ではないと思わんかね?」
「だからって、奴らを喜ばせる事ないじゃないか」
「北川、確にあの国は異常で危険だ。だが、それを変えるには他の方法もあるのではないか?」
「うん?」
「我々は、一番重要な力を忘れてると思うのだがな」
「そいつは何の事だ? 久瀬」
「人だ……そこに生きる人の意志だよ、北川」
「はぁ?」
「あの国で市民の思想発展を押さえ付けているのは、独裁政治による強権ではなく貧困によるものが大だ。なけなしの食料を党が抑えているから尚更ひどい。もし彼らが次の段階に進むことが出来れば、あの国は変わる」
「久瀬、たらふく食えれば市民たちが目覚めると言うのか?」
「民主的な国家の基礎はそこに住む人々の意志だ。目先の事しか考えられない状況から脱することが出来れば、彼らは次に将来を思うだろう。いかにありたいか、希望や理想、人々が求め出せば誰にも抑えることなど不可能だ」
「……革命?」
 話を聞いていた舞が呟いた。
「いや、どんな形になるかはわからんが、目指すのはもっとゆっくりとした民主化だ。その為には倉田さんの提案にあるような長期的な支援が必要となる」

「あの国が変われるのかなあ」
「日本もミサイルの射程に入ってるんだよ〜」
 北川や名雪は、まだ懸念があるようだ。
「久瀬、少なくとも射程の長い兵器の制限くらいは強制した方が良いんじゃないか?」
「自国に必須な貿易相手を攻撃するのには、彼らも慎重になると思うがね? 後はあの国の人たちに任せた方が良いだろう。それ以上になると、押しつけの干渉と捉えられかねん」
「私たちは手伝うだけ……」
「量もそうだけど、一般市民へ確実に届けられるかが問題だね」
「そうだな、斉藤」
「党や政府機関から横流しや転売されないように、取り決めが必要でしょう」
「そうそう、数年前の日本政府みたいにならない様にね」
「それが一番難しいところだ」
 腕を組む久瀬の隣で、佐祐理さんが笑顔で言った。
「あはははーっ、それは大丈夫ですよ〜」

「では、皆さん宜しいですね〜」
 佐祐理さんが課としての決定を下す。
「日本政府の備蓄米を安く購入して、北朝鮮で現地通貨による販売を開始しますよ〜」
「え? ウチが販売するの?」
「お金取るんですか? 専務」
 香里と美汐が、妙な顔つきで訊いた。
「もちろんです。失礼な事はしたくありませんから」
「てっきり無償援助だと思ってたわ……」
 香里が、配られていた分厚い資料を読み返しはじめた。
「ですけど、一般の方が買える値段に設定しますから、かなりの赤字になりますねぇ〜」

「どうして?」

 課員たちが疑問を挟む。 
「佐祐理たちだって、ずっと助けてあげる訳にはいかないんです。依存されてしまっては問題は解決しません。働いたお金でお米を買える様にするためのお手伝いですよ〜」
「うむ、もっともな方法だ」
 久瀬だけが大きく頷く。
「うぐぅ? ただであげるのと違うの?」
「月宮さん、北の人たちに体験してもらうことが重要なのだ。資本主義の”市場”というものをな。僕たちがやろうとしているのは自立への支援であって、人道支援などと称する消極的ものとは全く違う」
「うぐ?」
「色々と言われてはいるがね、資本主義にも良い点があるのだよ。それは多様な選択と公平な競争による可能性だ。確かに弱いものには耐えられないかも知れん。しかし本来”自由”とはそう言ったもので、自分の行動にリスクと責任を持たなくてはならない。独裁政治のあの国で人々に解って欲しいのだよ。極論してしまえば……希望は自分たちの手にある事をな」
「久瀬、お前はそんな事まで考えてるのか?」
「会社の後継者として、一通りは学ばせてもらったからな」

「秋子さん、日本政府の反応はどうなると予測されますか〜?」
「財政事情が厳しいですからね……おおむね好意的でしょう」
「日本の潜在的な生産能力は、優に需要の1.5倍以上あるしな」
「川澄さん、来年からは減反しなくて良いかも知れないね」
「農家の人は喜ぶ……」
「日本政府は古くなった備蓄米を飼料用に廻す程余らせてるんです。今年は400万トンだったでしょうか?」
「古々米の相場は12,000円/トンくらいね。備蓄経費は倍以上かかってるっていうのに、ホント異常だわ」
「日本の農業も歪んでるよなぁ」



4.

 ようやく長かった会議を終え、解散した課員たちが各々の仕事を再開する。美汐も自分のデスクに戻り、先ほどの封筒を開けた。
「?」
 表書きは漢字だった。記憶を辿ると、差し出し地は確か中国東北部の地名だと思っていたのに、中の手紙はハングルだった。
「どうした?天野」
「相沢さん、読めますか?」
「ん?」
 祐一が渡された手紙に目を通す。
「……俺には無理だ」
「やはりそうですか」

 手紙を持ったまま、祐一が課員たちに訊いた。
「おーい、誰かハングル読める奴は居ないか?香里はどうだ?」
「どうしたのよ、相沢君」
「うち宛に郵便が届いたんだ」
「英語なら自信あるけど、さすがに知らないわ」
「斉藤は?」
「中国語なら何とかなるんだけどね。僕も読めないよ」
「僕も駄目だな、ロシア語とラテン語しかできん」
「名雪、そう言えば世界中の人と会話できるって、なんか習ってなかったか?」
「祐一……私が習ってるの、手話」
「あゆと真琴は?」
「うぐぅ……日本語だけ」
「あうー、同じく……」
「栞?」
「そんなこと聞く人、大嫌いです」
 今日、6個目の蓋を開けながら栞が答える。

 会議室が禁煙だったため、廊下で煙草を吸っていた北川が戻ってきた。
「みんなだらしがないな、社会人として言語能力は重要だぞ。オレなんか6つの言語を操れる」
「マジか?北川」
「おうよ!」
「北川さん凄いです!」
「意外ね。どこで勉強したの?北川君」
「土地の人から直接教わったんだ」
 ちょっと格好良いかも……香里は思った。
「なら、こいつを頼む」
 祐一が、北川に問題の手紙を渡した。
「なんだこれ?暗号か?相沢」
「ハングルだ。それくらい俺でもわかったぞ」
「北川、ちなみに君が修得したのはどんな言語かね?」
「えーと、北海道弁に津軽弁、名古屋弁から……最近は浜言葉も使いこなせるようになった」
「北川君……それは方言よ」
「いや、あれは完全に外国語だぞ」
「北川君を見直したあたしがバカだったわ……」
 香里が盛大に溜息をつく横で、秋子さんが妙にそわそわしていた。
「そうだ、秋子さんなら何とかなるんじゃないですか?」
 この人なら何でも出来る気がする。
「あらあら」
「どうですか?」
「あらあら」
「もちろん読めますよね」
「あらあら……」
「お母さん?」
「そうそう、今日はスーパーの売り出しがあるんでした。名雪、私は夕食の買い物に行ってきますからね」
 秋子さんは、買い物かごを掴んで悠々と出かけてしまった。

「読めないのね……」
「読めないんだなぁ……」

 一同が顔を見合わせていると、真琴がにこにこしながらCD−ROMを持ってきた。
「祐一、あったわよっ!」
「ん、何があったんだ? 真琴」
「これさえあれば大丈夫よっ」
 真琴が手にしているのは、『すらすらハングル翻訳2000完全版!』
「そのまま打ち込んで翻訳ソフトで変換させればいいのよ!」
「おお! 良いアイディアじゃないか。でかした真琴」
「えへへ」
 褒められた真琴が上機嫌に胸を張る。そんな真琴の肩に手を置いて、祐一が言った。
「じゃあ、頼んだぞ」
「あうー?」
「頑張って下さいね〜」
「……できれば早めにして」

「祐一っ! 何でアタシがやんなきゃなんないのよっ」
「じゃあ、俺の代わりに会議に出てくれるか?」
「何の会議?」
「会社更生法の適用を申請したフェリー会社の債権者総会だ。修羅場だぞ」
「そんなの嫌よっ!」



5.

 その日の夜、疲れ切って会議から戻った祐一が尋ねた。
「真琴、どうだった?」
「変な記号ばっかりで大変だったわよっ!」
「全部打ったか?」
「まだ途中……」
「とりあえず出来たところまでで良いから教えてくれ」
「いいわよ」
 真琴が、プリントアウトした用紙をファイルから抜き出して読み始めた。

「えーとね」

『倉田運輸の全ての人へ、私、キム、北朝鮮に住む者。理由がある。この手紙は中国の友人から送ってもらう、お願いした』

「翻訳がかなりいい加減ね」
「美坂、しょうがないじゃないか。ニッキュパの安いソフトだぞ」
「で?」
「なにやら深刻そうだな」
 居合わせた課員たちが、真琴に先を促す。
「真琴、早く続きを読んでくれ」
「……これだけ」
「なに?」
「まだ、それだけよ!」
「はえ〜気になりますね〜」
「かなり……早くして……」
「真琴、急いで作業を進めろ」
「あらあら、それでは夜食を用意しないといけませんね」
「あうー、やっぱりアタシなの?」



6.

 翌日、課員が出勤してくると、机で突っ伏している真琴と床で寝ているドミトリーが居た。真琴と仲の良い美汐も手伝っていた様で、早朝、美汐はきちんとした割烹着姿で自分を含め3人分の朝食を作っていた。 
「祐一、全部できたわよ……」
 へろへろになった真琴が、ふやけた肉まんをくわえながら言う。
「ドミトリーはどうしたんだ?」
「北朝鮮に居たことがあるっていうから、一緒に手伝って貰ったの」
「え?」
「ソビエト時代に軍事協力で派遣されてたんだって」
「じゃあ、早速見せてもらおう」
「真琴、そんなに根を詰めると体に毒ですよ」
 秋子さんが心配そうに気遣う。
「だって、大変なのよっ……みんなだって絶対驚くんだから!」

 ”カチッ”

 真琴たちが徹夜で打ち直したファイルが開かれた。

『倉田運輸の皆さん、私は北朝鮮に住むキムというものです。訳あってこの手紙は中国の友人を介して送ります。私は平壌郊外に住んでおり、電気技師の仕事をしています。そのため、禁制の外国のラジオやテレビを見る機会があり、皆さんのことを知りました。
 今、自宅にいる私は、目立たないようにですが監視されています。何気なくしゃべってしまった外国のことや我が国の不作についての報道内容は、危険思想・体制批判と判断されたようです。
 お願いします、私と私の家族を日本へ運んで下さい。
 ここに留まれば収容所に連行されるか、家族をバラバラにされ強制労働にかり出されるでしょう。私には妻と娘が居ます。私たちは、もうこの国には居られないのです。』

 ディスプレイを覗き込んでいた課員たちの表情が固まる。
「亡命かよ!」
「映画みたいですー」
 栞は、興味津々の様子だ。
「おいおい、一つの家族の命がかかってんだぞ、栞」
「はえ〜、旅客輸送ですか〜」
「専務、それもちょっと違うと思うわ……」

 その後課員たちは、昨日に引き続いて長い会議に入った。



7.

 1ヶ月後。
「何故、いつも僕たちはこういった役回りなのだ?」
「北川は金髪だし、女性じゃちょっと無理だからね」
「不愉快だな」
「ロシア訛りなんて気にする人は居ないと思うけど、偽装としては役に立つかも知れないよ」
 ドミトリーに缶詰状態で言語を教え込まれた久瀬と斉藤は、中国側から商人を装って北朝鮮に潜入した。もちろん身分証も完全に偽装しており、二人は無事に国境を越えた。
「しかし、もう少しましな商売は思いつかなかったのかね」
「この国じゃ、一般市民はまだ燃料に石炭を使ってるんだよ、いろんな所に行っても怪しまれないし、トラックを走らせても不審じゃないだろ?」

 石炭を積んだ、くたびれたトラックが平壌市街に入る。首都とは言っても、郊外に建ち並ぶ規格化されたアパートは気が滅入るほど陰気に見えた。
「斉藤、あの角ではないか?」
「そうだね、西2118−5。あの建物だ」
「僕はトラックに残って辺りを警戒しておる。一人で大丈夫か?」
「問題ないよ」
 斉藤が、石炭の入ったバケツを持ってコンクリートの階段を上がる。目指す部屋は2階だった。
 ”コンコン”
「はい?」
 警戒するように、ドアが少しだけ開いた。
「石炭を届けに来ました」
「頼んでないよ」
「キムさんのお宅ですよね」
「ああ、そうだが?」
「ご依頼は果たしますよ。どうぞ」
 斉藤が、バケツの上に封筒を乗せて手渡す。
「僕たちはただの運送屋です」

 空のバケツと代金を受け取った斉藤がトラックに戻った。 
「どうだったかね?」
「第一段階は巧く行ったよ」
「やれやれだな」
「それと、返事がきたよ」
「うん?」
「これ」
 斉藤が見せる紙幣には、鉛筆で走り書きがしてあった。

『本当に来てくれたのか!待っていた!』

「よしっ、次の作戦の準備を進めなくてはならん。石炭屋もこれで終わりだ」
「ねえ、久瀬」
「なにかね? 斉藤」
「そういう訳にもいかないんじゃないかな?」
「僕はこんな汚い格好は好かんのだ!」
「だけど、残ってる石炭どうするんだい?」
 斜めになったトラックの荷台には、まだ1トン半の石炭が載っている。
「……売らんと怪しまれるな」
「どうしてこんなに積んできたんだよ」
「厳しいな……」



8.

 首都平壌から東に160q。日本海に面する元山では、国家主席を迎える会談の準備が進められていた。
 難航していた輸送と販売の問題も、現地に合弁企業を開設して同国の従業員を雇うことで事務レベルの合意に至っており、主席との会談は単なるセレモニーに過ぎない。輸送船の初便が入港するにあたり、多分に政治的な意図から主席は佐祐理さんとの会談を強く望んだ。当の佐祐理さんは、別に逢いたくないようだったが。

 警備兼秘書として佐祐理さんに同行している祐一が、輸送船上で朝鮮半島を眺めていると、ポケットに入れてある特殊な機密処理を施した携帯電話が鳴った。
「もしもし、相沢?」
「斉藤か? そっちはどうだ」
「順調だよ」
「俺たちは明日入港する」
「わかった」
「問題が起こったら知らせてくれ」
「うーん、今のところ久瀬が筋肉痛になったくらいかな」
「はあ?」
「慣れない重労働をしたからね。それと、食い物が不味くてしょうがないからお土産を持って来いってさ」
「ははははっ、何が良いんだ?」
「えーと、松茸とカニに決まってるって言ってるよ」
「1週間後には帰る。待っててくれ」
「うん」
「それじゃあ、またな」
 祐一が電話を切った。盗聴され、解読される可能性は低いものの、欺瞞のために久瀬と斉藤が本社に居るような会話をしなくてはならない。連絡を要する重要な点はただひとつ。入港日だけだった。

 船室に戻ると、秋子さんが小声で話しかけてきた。
「祐一さん、ちょっと困ったことになりそうです」
「どうしたんですか?」
「主席が船まで来るかもしれません」
「え?」
「国内向けの宣伝でしょうが、船上で歓迎式典をやりたいそうです」
「秋子さん、警備も厳しくないますよね」
「亡命者を同じ船に乗せるのは、かなり危険になります」
「第2案ですか?」
「ええ、佐祐理さんに相談してみましょう」
「だけど、久瀬たちにはこっちから連絡できない」
 身分を偽って潜入している2人が危険に晒されるのを防ぐため、連絡は、常に向こうが安全と判断したときに行うこととしていた。
「祐一さん、計画では最終段階でもう一度交信することになっています。こちら側の受け入れ準備だけは先に進めましょう」
「わかりました。佐祐理さんの了解をとって舞に連絡します」


 ・・・・・


「川澄さん、超低周波の信号だよっ」
「なに?……」
 数分かかって受信した内容は、3文字だった。

『ふ・え・?』

「アンテナ深度……」
 舞が指示を出す。
「アンテナでました。通信可能です」
「極東地区のオプ・センターを呼び出すよっ」
 あゆが、その日のコールサインを使って受信可能な体制にあることを送信すると、直ぐに衛星経由の連絡が返ってきた。

『はえ・あははははーっ・あはは・あはははははーっ』

「うぐぅ? なにこれ?」
 首を傾げながらも、あゆが通信を書き留めてクリップボードに挟んで舞に渡した。舞が、こくっと頷く。
「了解符送信……」
「あうー? 何かあったの」
 後部にいた真琴が、心配そうな表情でやってくる。
「バックアッププランに変更……作戦開始は04:25時」

 舞が、食べかけのレトルト牛丼を海図台に置いた。



8.

「斉藤、この国の車にしては乗り心地が良いな」
「当たり前だよ。このピョンヤン410は、エンジンとシャーシがベンツ製なんだ」
「なんだと? それでもこの国の国産車と言ってるのか?」
「うーん、ボディだけは自前で作ってるらしいよ」
「変な国だな」
「久瀬、それは最初っから判ってる事じゃないか」
 久瀬たちによる次の作戦は、大胆かつ危険なものだった。高圧的な態度、相手に考えさせることなく威圧することが必要となる。しかし、ほんの数時間だけ誤魔化せればそれで良い。
 深夜、二人は再びキムのアパートの前に車を乗り付けた。辺りはひっそりとしており、人影はない。
「斉藤は車で警戒していたまえ。僕が行って来る」
 足音を忍ばせてアパートの階段を上がり、目的の部屋を確認した。時計を見て時刻を確認する。まだ充分余裕があった。久瀬は、戸口の前でふーっと大きな深呼吸を一つすると、怒鳴りながらキムの家のドアを蹴破った。

「国家保衛部だ!」

 中央委員会の上部組織にあたる国家保衛部は、主席若しくは国防委員長に直結している。この国では人民の恐怖の対象となっており、突然家にやってきて逮捕していく。一般警察の社会安全部も対抗できないどころか、軍隊にあってもその活動は恐れられており、大概の検問やゲートは、乗ってる人間と肩章を見ただけで慌てて車を通した。
 威厳を持った久瀬の話し方と、恰幅の良い太いウエスト。そして、ピカピカに磨き上げられた高級車の効果はてきめんだった。
「キム、一緒に来て貰おう」
 正式拳銃のモデルガンを手にした久瀬が、冷ややかに言い放つ。
「大人しく言われたとおりにしたまえ」
 付近の住民たちは、関わりたくないのか堅く戸を閉めひっそりとしている。久瀬は有無を言わせず一家を連行し、手荒く車に押し込んだ。

 運転席の斉藤が車の天井に機械を取り付ると、車内に不快な倍音が響きはじめる。
「久瀬、もういいよ」
「これで盗聴の心配はない。驚かせてすまなかったな」
「君たちはもしかして?」

「そう、倉田運輸特送課だ」

 斉藤がギアをローに入れ、車を出発させる。
「おい、どこに行く? 空港はそっちじゃない」
「キムさん、あなたたちを空港へ連れて行くのは危険すぎるよ」
「港で船が待機しておる」
「南蒲か?」
「いや、半島東岸の元山まで行く。そこに社の輸送船がいる」
「160キロもある!」
「たった3・4時間の辛抱だよ」
 都市部を抜けると、斉藤が最終確認の連絡を行った。
「もしもし、相沢? そっちの食事はどうだい?」
「ああ、なかなか良い。だけど別の事でちょっと忙しい」
「何かあったのかい?」
「国家主席が、船で歓迎のセレモニーをしたいと言ってきた」
「そりゃすごいね」
「だから、最初の予定はキャンセルだ」
「しょうがないね。わかった、相手先に伝えておくよ」
「宜しく頼む、舞には連絡しておいた」
「うん、おみやげを待ってるよ」

 通話を聞いていた久瀬が、渋い表情で唸る。
「国家主席が船まで来るだと?」
「うん、バックアッププランに切り替えるそうだよ、久瀬」
「何か問題があるのか?」
 バックシートのキムが、不安そうに訊いた。
「ああ、元山に入港している社の船に国家主席が来るそうだ。当然警備も厳しくなる」
「何て事だ……」
 落胆するのが目に見えて解った。
「大丈夫だ、僕たちに任せたまえ。ところで……」
「なんだ?」
「ご家族は、泳ぎは上手い方かね?」


 ・・・・・


 山路を疾走する高級車は、元山を通り越して更に東へ走り、東朝鮮湾に出た。ヘッドライトを消して、斉藤がトランクからゴムボートを引っ張り出す。
「まさか、これで日本まで行く気なのか?」
「キムさん、沖合で待っててくれる船があるんだよ」
「見つけてくれると良いがな」
「そうだね、久瀬」
「どういう事だ?」
「いいから、君も手伝いたまえ」
 男3人がかりでゴムボートを展開し、渚に押し出す。電動とはいえ、静まりかえった海岸に響くモーター音はとても大きく感じられた。
「斉藤、GPSを起動させろ」
「わかった」
「予定より少し遅れておる。待って居てくれればいいが……」



9.

「ソナーは難しいです。海面雑音に紛れますし電動モータの音はかなり小さいんです」
 それでもソナー画面を凝視しながら栞が言った。
「予定時間……」
 舞が潜望鏡を上げた。倍率を上げて360度を見渡すのに2秒半かかり、すぐさま録画した画像を再生し直して、名雪が分析を始めた。
「川澄さん、何も映ってないんだよー」
「どうしましょうか?」
「アクティブソナーは駄目かな、川澄さん?」
「…………」
 音波を発信すれば、反射エコーでゴムボートを見つけられる可能性は高い。しかし、発信源の位置も正確にわかってしまうため非常に危険だ。
「だめだよっ、見つかっちゃうよ」
 刻々と時間は過ぎる。舞は決断した。
「……それしかない……この辺りにいるはず」
「うぐぅ」
「出力を絞って、一回だけ発信しますー」

 ”ピン!”

「いました! 左舷前方約5,200メートルです」
「浮上する……」
「えっ、川澄さん外はもう夜明けだよっ」
「直ぐに潜る……原子炉出力を上げておいて……」
「了解だよっ」


 ・・・・・


「やはり遅かったのか?」
「いや、川澄さんはそんな人じゃないよ」
「船なんてどこにもないじゃないか……私たちはどうなるんだ」
 薄明るくなりつつある海原に、ちっぽけなゴムボートが漂う。
「事前の打ち合わせだとこの位置なんだけど……」
「斉藤、GPSの精度はどれくらいなのだ?」
「うん、誤差1メートル以内だよ」
 ふと、キムが不思議そうに呟いた。
「何故……揺れないんだ?」
「え?」
 凪に近かったが、小さなゴムボートは先程まで結構揺れていたというのに、今は全く止まり地上にいるようだ。
「変だね」
 斉藤が海図を開こうとしていると、キムの娘がボートから身を乗り出した。
「危ない!」
 落ちたと思ったら、娘は海に立っていた。背後で金属を叩く音がする。振り向くと、海に突き出した独特の丸く低いセイルから舞が顔を覗かせている。
 ゴムボートは、海面すれすれに浮上した潜水艦の甲板に乗り上げていた。

「乗らないの?……」



10.

 漂流していた5人を収容すると、舞は潜入を指示した。アルファ級攻撃型潜水艦の船内は狭かったが、ようやく安心したのか家族たちはリラックスしており、久瀬たちと一緒に、多少なりともまともな食事をあてがわれた。
「生鮮品がもう無くなっちゃったから、こんな物しかないんだけど」
 名雪が持ってきた朝食を置く。疲れ切っている者たちが、貪るように食べ始めた。
「美味い!」
「パンとベーコンがそんなに美味しいのかな?」
「私たちには充分です」
「それは良かったよ〜」
「おお!暖かい食事など久しぶりだ!」
 久瀬が大げさに喜ぶ。
「ずっと缶詰ばっかり食べてたからね。ありがたいよ」

 キムの妻が訊いた。
「この瓶に入ってるのはジャムですか?」
「!」
 場に緊張が走った。凄い勢いで乗組員たちが振り向く。
「は?何か特別な物なんでしょうか?やはり食べてはいけませんか」
「悪くはないんだけど……止めた方が良いと思うよ」
「なぜです?」
 名雪が勇気を出して言った。
「不味いからなんだよ〜」
「私は気にしません。宜しければ戴きたいです」
 仕方なく名雪がスプーンを持ってきた。
「美味しそうな色です」
 キムの妻が、パンに山盛りのジャムを口に入れ――何度か噛んだ。
「うっ!」
 だから言ったのに……。名雪は、強引にでも引き留めた方が良かったかも知れないと後悔した。

 操艦指揮を執る舞は、全く違うことを考えていた。5歳になるというキムの娘は、泣きもしなければ喜びもせず、無表情のまま両親の間にちょこんと座っている。
 この子は強い。全てを自分の中に押し殺している。だけど、幼い子供にそんな強さなんて無くても良いはずだ。この子にもたくさんの友達ができて、いつかまた笑うことができますように。
 そう、私のように。



11.

 アイス片手にソナーを監視していた栞が報告した。
「川澄さん、浮上中に微弱な照射を受けていた可能性があります」
「……誰?」
「多分陸上レーダーサイトです。やっぱり逆探知されちゃったかも知れません」
「うぐぅ!」
「……どうしたの?」
「北の潜水艦が動き始めたよっ!」
「えぅ! ソナーに海上船舶です。探信してますっ!」
「北の海軍かね?」
「……見つかった」

 慌ただしくなった乗組員たちと突っ伏す妻を見ながら、キムはおろおろと狼狽えている。
「川澄さん、かなりはっきりした変温層があります。下に潜って一気に逃げちゃいましょう!」
「栞君、速度を上げれば音が出るのではないか?」
「大丈夫です。北の潜水艦はそこまで潜れないです」
「層の位置は?……」
「深度610メートル付近ですー」
「デコイも使った方が良いんじゃないかな?川澄さん」
「…………」
「斉藤さん、デコイってなあに?」
「MOSSの事だよ、月宮さん」
「うぐぅ?」
「ハンバーガー?」
「違うよ、沢渡さん。MObile Submarine Simulator。訓練にも使うけど、擬似音を出す囮のことだよ。川澄さん、積んでるかい?」
「ある……でも、かなり高価」
「いきなり攻撃なんてしてこないよっ」
「安全のためには必要だよ」
「わかった……」
 舞は深深度への潜行を指示しながら、MOSSの発射を命じた。

 曳航ソナーが変温層に沈みきる前に、水中に突発音があった。
「トランジット確認です。魚雷発射されました!」
「なんだと!」
「うぐっ!」
「魚雷は2本です! 距離4500メートル!」
「対抗策発射……進路変更」
 落ち着いた声で舞が指示を出す。
「発信音が変わりました。1本は囮に向かってます」
 探知を続けていた栞がヘッドセットをずらすと、間違いようのない大きな爆発音がした。
「もう一本は?……」
「距離1500メートル、真後ろです! 変温層を抜けてきました。有線誘導かもしれないです」
「魚雷速度は?……」
「川澄さん、45ノットだよっ」
「最大速度……原子炉出力を120%に上げて……」
「危険よっ!」
「いいからやって……」
「魚雷1000メートルを切りました!」

「800メートルです!」
「対抗策、効果なかったよっ。再補足されちゃったよ!」

「700メートル。近づいてますー」
「こっちも撃ち返すわよ!」
「……それはダメ」
「なんでよ、やられちゃうわよっ!」
「私たちに交戦の意図はないから……」

「600メートル、瞬間的に音波が戻ってきます。完全に捕まっちゃいました」
「斉藤……君には世話になった。こんな時になんだが、ありがとうと言わせてもらう」
「久瀬、何言ってるんだい?」
「このまま死ぬのは忍びないのでな」
「え?」
「僕たちは、魚雷で沈められるのだろう?」
「ははは、川澄さんはちゃんとわかってるよ」
「どういう事かね?」

「えう?」
「栞君、どうしたのかね?」
「久瀬さん、魚雷が離れて行きます」
「なに?」
「現在距離640メートル? どうしちゃったのでしょう?」
「振り切れた……」
「久瀬、だから言ったろう。川澄さんは艦の最大速度をちゃんと知ってるんだよ。この艦なら北の魚雷より速い」
「斉藤っ」
「なんだい?」
「知っていたのなら、何故最初からいわんのだ!」
 久瀬が、真っ赤になって斉藤をポカポカ殴る。

 名雪は、艦内の厨房でお代わりを作りながら思った。あの無駄な魚雷2本で、どれだけの人がご飯を食べられるんだろう。



12.

「ようこそ日本へ」
 数日後、潜水艦は社の専用港へ接岸した。潜水艦のハッチから出てきたキムは、眩しそうに朝日に目を細める。ヘリで一足先に戻っていた佐祐理さんと、居合わせた課員たちが家族を出迎えた。
「キムさん、政治的な亡命として身元は引き受けさせていただきますよ〜」
 日本の地を踏みしめて両親は喜びに顔を輝かせるが、娘はにこりともしない。気になった佐祐理さんが声をかけた。
「お嬢ちゃんはいくつかな〜」
「…………」
 返事はない。
「はえ〜、お子さんはどうかなされたんですか?」
「ええ……」
「あんな所に住んでいたので、この子はこんな風に育ってしまいました。本当に悲しいことです」
 そう言いながら母親が娘の頭を撫でる。
「じゃあ、お姉ちゃんが良い物をあげましょうねぇ〜」
 しゃがみ込んだ佐祐理さんが、ごそごそとポケットを探る。取り出したのは、薄いセロファンに包まれたあめ玉だった。
「美味しいですよ〜」
 暫く躊躇っていた娘が、飴を口に含んだ。
「どうですか?」
「……おいしい」
 娘が、十数日間にわたる危険な旅を経て初めて交わした言葉だった。後ろに立つ舞は、一人無言で頷いた。

「それと、キムさん」
 立ち上がった佐祐理さんが振り向く。
「何でしょう?」
「今回の料金なんですけど……」
「は?」
「ご自宅までの迎車に、陸上が210qですねぇ〜、ゴムボートと潜水艦の海上運送が1,940qで……」
 呆気にとられる課員たちをよそに、佐祐理さんが桁数の大きい電卓を叩いていく。
「おいおい佐祐理さん」
「さすがに、そりゃないんじゃないか?」
「佐祐理……」
「ほら、舞だって何か言いたそうじゃないか」
「はえ?なんですか、舞?」
「MOSSの代金もいれて……」
「あ、忘れてました〜」
「おい!」
「端数はばっさり切って、当別割引で1,500万円で良いですよ〜」
 佐祐理さんが、にこにこと電卓の数字をキムに見せる。

「お金取るんですか?」
「当たり前です」
「私たちには、財産なんてありません……」
「でも、長期の月賦でいいですよ〜。年利は0.2%くらいでどうでしょう?これから、あなたも働いて家族を養って行かなきゃならないんです。日本は豊かも知れませんが夢の国ではありません。支払いが滞ったら直ぐに駆けつけますからね〜」
「え?」
 暫く考え込んでいたキムは、言葉の意味を理解し深々と頭を下げて言った。
「ありがとう……」
「午後に外務省の方が見えますから、それまで用意した宿舎で休んでください」
「わかりました」
 亡命は成功した。しかし、この異常な旅は新しい生活の始まりを告げるものだ。佐祐理さんは、キムの就職の手伝いまですると言う。新生活が、必ずしも幸せになるといった保証はない。
 現にアメリカのCIAの報告では、社会に適応できず精神に異常をきたしたり、自殺する者さえ少なくないらしい。佐祐理さんは心配だったのだ。一家がきちんと収入を得て、日本で暮らしていけるかどうかが。
 もし、キムからの振り込みが少しでも遅れたら、航空機か、ヘリか、また舞がねだることがあればロケットで、佐祐理さんは、直ぐさまキムの家を訪ねるだろう。
 にこにこ笑いながら。

 初冬を迎えた寒空に、日が昇っていく。まだ低い太陽から、冷え冷えとする港にも微かな暖かさと共に日差しが降り注いだ。
「倉田さん、あなたは本当に優しい方だ」
「はえ?久瀬さん、急に改まってどうしたんですか〜」
「僕は、一緒に働けて光栄に思っている」
「久瀬さんこそお疲れさまでした〜、ずいぶんお髭が伸びましたねぇ〜」
「うん? ああ、そうだな…… 剃ってきた方が良かったね?」
「ちょっと格好良いかも知れませんよ〜」
「は?」
「あははははーっ」



13.

「佐祐理さん、そろそろですよ」
「あ、そうでしたねえ〜」
 秋子さんに促され、佐祐理さんが電話をかけた。
「もしもし?」
「はい、天野です」
「そちらはどんな感じですか?」
「解りません……あと数分です」

 午前9時。東京市場が始まった。

「天野さん、まだでしょうか〜」
「まだです」
「ふえ〜」
「あ、専務、付きました!」
 美汐の声が明るくなる。
「始値は……公募価格を10%も上回りました。専務、株式公開は成功です!」
 本社に残る香里からも連絡が入った。
「市場は好意的よ、ロンドンやニューヨークも同調すると思われるわ」
 今日、新規上場を果たした新株。『KRT』と表示されたチェッカーは、活発な取引を反映して目まぐるしく更新された。

「佐祐理さん、10%も上がったのか?」
 祐一が、信じられないような顔つきで訊いた。
「その様ですね〜」
「そうすると……俺の10万円は11万円になったのか?たった一日で?」
「相沢、だから従業員持株会でもっと買えと言っただろうに。僕の見たところではもっと上がる」
「久瀬はどれだけ買ったんだ?」
「聞きたいかね?」
「ああ」
 久瀬がニヤっと笑った。
「今年分の給料を、全てストックオプションにして貰ったのだよ」
「僕もね。今日一日で数百万円の利益になったよ」
 これで、ようやく買いたかった物を手に入れることができる。
「斉藤まで……」
「なにか言いたそうだな、相沢。正当な投資だが?」
「北川、こいつらに何とか言ってやれよ」
「すまん相沢、オレも乗った口なんだ」
「北川……お前もか」
「悪いな相沢、今度何か奢ってやるよ」
「くそっ、じゃあ今から行くぞ! 寿司だ、寿司!」
「ははは、まあ良いけど。久瀬と斉藤も行くか?」
「仕方ないね」
「相沢、トロでもウニでも好きな物を頼みたまえ」
「よーし!支払いは任せたからな!」
 男4人が、わいわいと騒ぎながら車に向かって歩き始めた。
「待ってよ〜、私も一緒に行くんだよ〜」
「置いてけぼりなんて酷いですー!」
 名雪と栞が、慌ててその後を追いかけていく。

「あらあら」
「うぐぅ、でもこんな時間にやってるお店ってあるのかなっ?」
「……多分ない」
「あはははーっ、祐一さんたちはどこまで行くつもりなんでしょうね〜」

 ”パラパラパラパラ”

 港に残る課員たちを迎えに、護衛隊所属のヘリが現れた。
「さあ、私たちも帰りましょう」
「しばらく留守にしましたから、仕事が溜まってますよ〜」
「倉田さん?」
「はえ? 何ですか、月宮さん」
「会社には、どれくらいお金が集まったのかな?」
「今回公開したのは発行総数の15%で2億5千万株ですから、1兆円くらいの資金が調達できましたよ〜」
「うぐぅ! そんなにたくさんのお金をどうするの?」
「もちろん……」

 にこにこしながら、佐祐理さんが答えた。

「お米を買うんですよ〜」






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